カテゴリー別アーカイブ: 2005

業界のシキタリ

 最近立ち寄った本屋で、ふと目に止まった本があり購入しました。その本は青春出版社から発行されている 「お客には言えない!あの店、あの仕事 ここだけの話」という題名の本でした。読み進めていると「ほう、ほう」とか「そんなことやったのか」と思うのと同時に「そんなん知ってるわ」とか「いまさら敢えて言わんでも」という内容のものが多くありました。
 昔から、その業界業界で「シキタリ」や「シュウカン」「ナラワシ」などありますが、それはその業界内だけでの「内緒事」や「決まり事」であり、それが外部にはあまり漏れるものでもなかったのですが、今では「情報開示?」が徹底されてきまして、いろんな業界の「内緒事」が表に出るようになってきました。
 そんな「内緒事」を持っていたその業界関係者は、そういった内容が世間にあからさまになるに従って、当然に仕事がやりにくくなってきたとは思いますが、その「内緒事」というのは、ほとんどの場合が、業界関係者が「得」する事であって、消費者や利用者にとっては「損」する事柄が多かったのは事実です。そう考えますと、今の「情報開示?」されている状況というのは、消費者や利用者にとって歓迎すべき状態である事はいうまでもありませんが、逆にいろいろな業界関係者にとっても「内緒事」を行う事によって「楽」をしてきた関係者や、「得」をしてきた関係者が淘汰され、「当たり前の姿勢」を貫いてきた関係者が生き残るという状況に近づいてきているとも言えます。しかし現実は、そういった状況がどれだけ近づいても、そんな綺麗事だけではビジネスは成り立ちません。
 例えば本当に極端な話をすれば、さかな屋さんが昨日仕入れた魚と今日仕入れた魚があり、どちらも全く品質的に問題がないにも拘らず全員のお客様に対し、「こっちの方が新しいよ。こっちを持っていき。」とやってしまえばいつまでたっても昨日の魚は売れません。こんな事は極端すぎると思われるかもしれませんが、物事の判断基準というものは、人それぞれ違うのですから、魚の鮮度を重要視する人と、どちらでも良いと思う人ではその店の評価は変わります。
 そう考えますと、ある程度の「策略」はビジネスの世界では容認されなければならないと思いますが、常識的に言うその「ころあい」や「度合い」を超えてしまうか超えてしまわないかが、ビジネスの中の「まじめさ」の基準なのかなと思ったりします・・・。

少子高齢化

 今回も第162回通常国会が開催され、小泉首相が施政方針演説を行った事に対する代表質問が次々と行われています。その場では言うまでもなく、国会議員のお偉い先生方が、国民の生活のため、またこれからの日本のあり方などについて真剣に討議し合い、時には実力行使するなど熱い熱戦が繰り広げられます。そんな国会の様子を私などは昼間は基本的には仕事をしている訳ですから、リアルタイムに見ることはほとんどありませんので、翌日の新聞などで見ていますと、私たちの生活に身近な事柄が代表質問され、また答弁されている事に気づきます。
 そんな中で特に私が興味を引いたのが、小宮山代議士が代表質問された「少子化対策について」です。2006年の1億2274万人をピークに日本の人口は減り続け、2100年には6000万人になるという予測があるほど日本にとっては非常事態です。政治にはあまり関心のない私自身でも、この問題が今一番重要な課題で、またこの問題を解決する事により今問題となっている色々な事の解決策が見つかる重要な事柄ではないのかと思います。
 例えば年金問題にしても、高齢化が進む中で、若者の人口が減りゆく一方で、年金の支払いが多くなるにもかかわらず、自分たちに満足な年金支給されるかどうか分からない状況ですと誰が払う気になるでしょうか。また景気にしてもそうです。私の仕事のように不動産を取り扱うも者も、世帯が減っていくと、売り物件だけが多くなり買う人がいなくなったり、自動車も人口が減ると売れる台数が減っていきます。企業が儲からないと所得も増えず税収も減ります。こんな風にスパイラル状の悪循環が容易に想定できる状況です。
 そう考えますと子供を生み育てる環境の整備をすればいいのではないかと単純思うのですが、それには色んな事が考えられます。例えば非常に乱暴で即物的に考えれば、「1人目には5万円、2人目には10万円、3人目には15万円を支給する」ということになったり、学費の大幅支給や援助などを行ったりすれば、せっせと子造りに励む世帯も多くなると思います。また、子供が増えれば子供向けの産業や、外食産業、レジャー産業なども潤います。そしてその子供が成人すれば、また衣食住の需要が増え日本全体の産業が活発化していきます。しかしそんな事をすると今の政府の台所は火の車になるかもしれません。でも後たった20年後にはそれを取り戻せるだけの税収は確保できるはずです。 
 現実は、そんな単純なものではないかも知れませんが、政治を知らない私は単純にそう思うのでした・・・。

結婚式

 昨年の暮れに友人の結婚式に出席させていただきました。さすがに私もこの年になりますと、いろんな式に出席させていただきましたが、その式は最近巷ではよくやっているらしい「人前結婚式」という式らしいのですが私は初めての体験でした。その式は神父さんもおらず、そこに出席している全員が立会人となって二人の結婚を確認するという方式ですが、よく考えてみれば仏教徒の多い日本人には、神様の前で神父さんに誓いを行うより、現実に目の前にいる友人や知人の前で誓いを行うという行為のほうが合っているのかなとか一人で思いながら立会いをしていました。
 そして次第に式も進み、友人と新婦さんが出席者の前で指輪の交換や誓いの言葉を宣誓しだすと、何か少し私の中に込み上げるものが出てきまして「ジーン」としていました。そんな式も滞りなく終了し、.披露宴会場に移ってからは先ほどの「ジーン」と言う感情もどこかに吹き飛び、大酒を喰らっては同席している友人と馬鹿話をしっぱなしでした。そんなケタケタ笑っていた披露宴も佳境に入り、新婦が「ご両親への感謝の言葉」なんかを涙ながらに語り始めようものなら、先ほどの「ケタケタ」笑っていた気持ちはどこかに吹っ飛んでしまい、大酒を喰らっていることも拍車をかけてまたまた「ジーン」となっていました。
 披露宴も終わり、運転代行を呼んで後部座席でくたばって帰る道すがら、ふと「俺って昔からこんなに涙もろかったっけ?」と考えてしまいました。初めて出席させていただいた結婚式なんかは、それこそ「恥かかんようにせんとな」という緊張でそんな気持ちなどは微塵も感じなかったのは当然のこととしても、出席させていただく回数に応じて段々と「ジーン」とくるようになってきています。また、TVドラマや映画などを見ていても、昔は「親父、何でこんなんで泣いてんの?」とよく言っていたのを思い出しますが、今では妻に「なんで、こんなんで泣いてんの」と言われてしまうようになってしまいました。
 「年をとると涙もろくなる」とよく言われますが、そのカラクリは何なのでしょう?いろんなことを体験したからこそ、その立場が分かるようになってくるからでしょうか。それとも精神的に弱くなってきているからなのでしょうか。今考えると非常にヒドイ事をしていたとつくづく思いますが、確かに幼少の頃は昆虫などを意味もなく「殺戮」していましたし、人を傷つけるような言葉を平気で発していたようにも思います。
 本当はどっちが動物である人間の本性なのでしょうか・・・。