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【コラム】最終話2

前号からのつづき。
余命半年と宣言され、それから社員には無理を言って妻と愛犬4人で日本中を旅してまわりました。その甲斐あってか病気の進行は止まり、半年後には私も仕事に復帰しました。それから2年半ほど経過し、立て続けに愛犬が亡くなったことで妻の病状が悪化、その半年後に妻は天へ召されてしまいました。
 このことがあってから、それまで「趣味は仕事」と豪語していた私も、自分は何のために働くのか、また死というものが頭で解っていても心では全く理解していない事がはっきりとわかり、大きく人生観が変わりました。それまでは、会社の繁栄、地位、名誉、名声、お金、などを追い求めることによって「幸福」を得ることが普通であるように感じていた自分が、その先にある「幸福」というものの捉え方に大きく変化が生じ、その結果、今まで必死に追い求めていたのに得られなかったものが自然に得られたり、またそれ自体を求めなくなるようになりました。また、新たな伴侶も見つけ今までとは違う人生を歩み始めました。そうなってきますとこの会社も、地域の皆様のおかげで、決して潤沢ではありませんが安定した業績を出せるようになってきた今、業務に前向きな人員に引き継いでもらい、私は完全に卒業したほうが良いという思いで今回の判断とさせて頂きました。良く聞かれるのが私自身として次に何をするのか、という事ですが、今は特に具体的な目的はありませんので。
 これまで同様地域の皆様には、誠心誠意尽くす社員ばかりであるこの近畿不動産販売を、これまで同様何卒ご贔屓賜りますよう心から申し上げまして、私の最後のコラムを締め括らせて頂きます。
 14年間本当にありがとうございました。

最終話1

 突然ではございますが、このコラムもこれを含めあと2回で終了させていただくことになりました。と言いますのも、この8月でかねてから計画しておりました「近畿不動産販売」からの卒業を果たすことになったからです。その為今回は2週にわたり掲載させて頂きます。
 思いおこせば私が代表を務めはじめた2001年、それまで大阪や東京で会社勤めをした後、33歳で意気揚々と独立しました。しかし、「会社というバックボーンがあるからこそ仕事ができた」という今となっては当たり前に分かることを、若気の至りとでも申しましょうか、何の根拠もない自信の上での独立でした。ましてやそれまで「名張」という地には住んでいたこともありましたが、殆ど仕事もしたことがなく、この地域特有の商売方法など全くと言っていいほど知らない若造が、何の根拠もない自信だけで独立したものですから、当然に仕事ができるはずもありません。今は亡き妻と二人三脚で独立してから3年ほどは、私自身に給与を出せないほどの経営状態が続きました。そんな経営状態ではありましたが、まずは地域の皆様に会社名だけでも覚えていただこうと、私自身の顔写真入りのバスを走らせたり、名張市内へ入る国道には大きな顔写真入りの看板を掲げさせていただいたり、2002年4月からこのコラムを始めさせていただきました。あれから13年で300話を超えるコラムを掲載させていただきました。
 その甲斐あって、当初仕事量はさほど多くはなかったですが、知名度だけは満足のいく結果が出てきました。ですから実際には利益は殆どありませんでしたが、世間では良く儲けているように思われていました。そんな必死な状況の中でも、何とか皆様に支えられながら仕事を続けられ、ようやくこれから知名度と仕事量の均等が取れてきそうだなという時期に、妻の病気が発覚しました。 次号へ 

 

ギリシャデフォルト問題

 私がこのコラムを書かせていただいている時点でのメディアの話題の多くは、ギリシャ問題と上海株暴落が多くを占めています。この二つの課題は、当然の事ですがギリシャや中国国内の問題だけでなく、世界経済に大きな影響を与えている問題です。これらを問題なく解決させ各国の経済や世界経済に大きな影響を与えることがないよう、小市民である私は祈るばかりです。
 これらの問題もそうですが、いま世界で起きている様々な問題というのは、日本人の我々にとって当然に理解できるものや、逆に全く理解できないというか理解の範疇を超えて、どうしてそうなってしまうのかというものも多く存在します。例えば先述のギリシャ問題です。これをごく表面的に見ますと、借金をした人が貸主から「今の出費を減らして努力してください」と伝えられます。借主は最初努力して支出を減らしますが次第に「もう節約なんてこれ以上出来ない」と貸主に伝えます。貸主は当然に「いやいや、更なる節約をしないならこれ以上の恩情はかけない」と通告しますが、借主は全員の判断で「もう節約しません」宣言をします。これって表面だけを見ていたらおかしな話だとしか感じられません。しかしここで勘違いしてはいけないのは、当のギリシャやEU側からすれば借金問題は表面にある問題で、それ以上にその奥にある事情でこういう展開になるという事を理解すべきなのです。EU離脱問題や経済的懸念、またギリシャの歴史的背景などです。同じように中国や韓国の日本との外交・領土問題、中国と東南アジアやアラブ諸国間やアメリカとの関係なども表面だけを見ていると、全く見誤った判断をすることになりかねません。
 しかし、私のような小市民ではメディアの情報しか頼りになるものはありませんので、その中で取捨選択して自分なりに判断していくしかないのでしょうね・・・。 

文化芸術懇話会

 自民党国会議員の勉強会「文化芸術懇話会」で、作家の百田尚樹氏が発言したことが問題となっています。沖縄の地元紙2紙を指し「つぶさなあかん」と発言されたそうですが、これが自民党議員団の勉強会であったために問題になったのでしょうが、一個人の発言であったら果たして問題になっていたのか検証してみたいところです。確かに百田さんの仰ることは解らなくもないくらい沖縄の地元紙2紙は、どう贔屓目に見ても偏ったとしか言いようのない記事を書いている「ところ」も見受けられます。主義主張というのは100人いれば100通りの見方や意見があるのは当然ですが、本来報道というものは公正・中立・客観的でなければならないところですが、それは全国紙であってもそれがはっきりと表れているところを見ると、地方紙では尚更ある程度は仕方の無い事なのかもしれません。
 沖縄と言えば今基地問題が深刻化し、それに加え憲法9条や集団的自衛権などが問題となっています。これについて語れば、このコラムの量では到底語りきれませんので割愛しますが、これらを議論していることを私は違和感を覚えざるを得ません。憲法改正や集団的自衛権の賛成者は抑止力や日本の国際的役割から必要とし、反対者は戦争反対、平和憲法死守という立場です。しかしよく考えてみてください。自分のところだけが強大な武装をしようが、逆に平和論を唱えようが、全くこちらサイドの常識が全く通用しない存在がただ一つあるだけで、その議論は全く無意味になるという事です。確かに自らを神のようなおおらかで大きな存在でいておくとか、逆に誰も歯向かえないほどの強大な筋肉をつけておくのかという事も大事ではありますが、それより先にその常識が通用しない相手との関係をどうしていくのかを先に議論すべきなのではないかと思ったりします・・・。

抑止力

 最近、年金機構や東京商工会議所の個人情報流出が相次いでいます。年金機構の報道を見ている限りでは初歩的なミスで非常に多くの方々に迷惑をかけたことについて年金機構は責任回避することはできないでしょう。ウィルスに関する教育が徹底されていない事や、公表の遅延など、本当に初歩的な事柄ばかりで年金機構の責任感の無さが表れていると思います。しかし、この種の問題は、そもそも人が作ったものを人が防御しようとしているわけですから根本的に世界が性善説で成立しない限り完全に防御することは不可能な事です。ただ、多くの情報漏えいをしたその組織が、先述のように防御に対する意識が低かったり、甘かったりするケースが多いのは確かです。そして、世間はその組織を非難し、またそれが原因で犯罪に巻き込まれた場合には、その組織に対しての非難が高まったりします。この風潮を変わり者の私はいつも何か腑に落ちない感覚で見ています。
 確かに落ち度があったりして非難されるのは仕方の無い事です。ただ、「意図的に情報漏洩した」わけでなく、逆に「意図的にこの情報を盗んだ」犯人には全く非難も触れもせず、ある意味「被害者」であるその組織が一方的に責められている事が理解できないのです。これは「悪い奴には何を言っても始まらない」と思っての事だと思うのですが、それで終わってしまっては、善と悪の攻防合戦がエスカレートするだけで、何のメリットも生じません。
 これを解決させるためには、意図的に悪事を企んだ場合の罰則を強化させることである程度は解決できるはずです。悪事を働くメリットと、捕まった場合のリスクを天秤にかけて、リスクが「圧倒的に大きければ」犯罪に対する「抑止力」になります。
 悪意を持って悪事をする輩が非難を浴びない風潮こそ、無くしていかなければならない事だと思います・・・。 

分相応

 私は結構【食】が好きなので、昔からよく美味しいものを食べに行きます。東京に住んでいた頃には納豆が食べたいと思ったら、わざわざ水戸まで納豆を食べに行ったり、今でこそ有名になりましたが、当時はどこも扱っている所がなかったので、のどぐろを食べたいと思ったら新潟まで食べに行ったりと、結構無茶なことをしたものでした。今では、宅配とネットの普及で日本中はもとより世界中のあらゆるものが、ボタンひとつで自宅まで届きますので、そんな無駄な行動をすることも少なくはなりました。そうして年齢と共に段々と美味しいものを食べていったある時、ふと気付いた事がありました。それは、今まで食べたものより美味しいものを一度でも食べてしまうと、次からは今までの食材では感動しなくなってしまう事です。それまでは【美味しい、美味しい】と喜んで頂いていたものでも、一度でもそれ以上のものを口にしてしまった途端、前には美味しかったものが普通の食材になってしまいます。そう考えますと、美味しいものを頂くというのは物凄くリスキーな事のように感じます。万一、若いときに自分には分不相応の高級でとても美味しい食事をしてしまうと、その後の分相応の食事では感動できなくなるということです。それと同じで、若いうちに分不相応の高級車に乗ったり、分不相応のアクセサリーや鞄などを持ったりする事も、その後、分相応になったとき、心のどこかに満足できない自分が存在したりします。
 そうするとある人はとことん無理をしてそれらを所有するか、またある人は不満を持ちながら泣く泣く我慢するかのどちらかです。しかしごく希にその時の自分に分相応なもので何とも思わない人もいますが、恐らくその人は元々それらにはあまり興味がない人なのかもしれません。やっぱり人というのは、分相応が一番ですよね…。

女川町の復興

 私が録画した読売テレビの「そこまで言って委員会NP」を見た時の事です。この番組は発言的にはかなり思考的に偏った人選なので、東京での放送は絶対にしない方針で、同じ発言をこの番組で行っても問題にはなっていませんが、全国版で発言すると大問題になった例は数え上げればキリがないほどです。そんな番組内で討論された議題で「その先に徴兵制復活がある憲法改正」についてあなたは賛成か反対かというものがありました。これは少し誤解されそうな言い回しですが、基本的に徴兵制というのは、即戦下へ送り込むというものではなく、あくまでも憲法改正と徴兵制度を復活するかどうかの議論です。その中で参議院議員の鴻池氏が憲法改正に賛成としながらも「徴兵制は70歳から」というユニークな意見を出していました。
 これと似たような考え方で、実際に目から鱗の施策を取っている自治体がありました。それは震災で甚大な被害を受けた宮城県女川町です。ここでは、今後の復興計画に関し「60代は口を出さず、50代は手を出さず支援」するという基本姿勢で、30代40代の方が中心となっていち早い復興を遂げました。確かに60代70代以上の方は今まで沢山の苦労をされ、今日の日本を作り上げてきた立役者であります。その方々が今は社会・経済・政治などあらゆる場でトップとして活躍されていますが、今後30年40年、もっと先までを考えるとその方々はほぼ全ての方がこの世からいなくなっている筈です。そう考えますと、その時代にこの世に残っている若者が中心となって街づくりを行う、というのはとても理にかなっている考え方です。
 そんな自分たちの社会を自分たちの責任で造っていくという考えで、今の若い方たちが政治活動や経済活動の中心となってやっていける社会を作るべきですね・・・。

労使関係

 世間はGW真っ只中、私共は仕事の真っ只中、というところです。そんなGWも終われば、すぐに普段の生活が始まります。長い休みを取れば取るほど普段のリズムに戻すのが大変になるのは仕方がない事なのでしょう。
 そんな仕事ですが、最近自分でもよくわからないことがあります。それは、「労使関係」です。マルクスや経済学者の説では色々な見解がありますが、私の解釈を簡単に言うと会社というのは労働者が自らの労働力(時間)を売って、その対価として賃金を資本家(雇用者)から受けるという構図で成り立っていると考えています。ですから、本来であればどちらが偉くてどちらが偉くないというようなものではなく、お互いが持てるものを提供し合って成り立たせているものだと思っています。それが世間では如何せん、お金を支払う者と貰う者という構図であるため、資本家がややもすると自分のほうが偉いと勘違いしたり、労働者側も賃金を頂いているからという感覚で自らを下手に思ったりします。確かに商売の関係でみますと、商品を購入してお金を支払う側は「お客様」なので、販売側よりも上手に感じるのは間違っていません。それが例え物質的な商品でなく、単なる労務やサービスを購入する場合でも同様です。そう考えますと、労働者が労働力や時間を資本家に売る労働というのは、労働者が資本家に対し販売側という捉え方もできます。もしそれが正解とするならば、販売側(労働者)がお客様(資本家)に対し下手に感じるもの頷けます。しかし、こんな事を言う人はいません。そういう私もこのコラムを書きながら、今初めてこの展開になったことに気づき、驚きを隠せません。
 いずれにしても私の考えでは、双方がお互いにできることを十分に行い、過度な主張や主義を通さず、互いを尊重し合っていくものだと常々感じています・・・。

ファールボールで失明

 先日、札幌ドームで野球観戦していた女性が、ファウルボールが目に当たり失明したとして、球場や球団、市を相手取り損害賠償を求めた訴訟で、札幌地裁が3者側に4190万円の支払いを命じる判決が出ました。この記事を見て私は直ぐに、日本よりももっとフィールドと観客席が近く、臨場感のある球場を作っている訴訟大国の米国ではどうなのだろうと調べましたら、予想とはちょっと違った判決が出ていました。米国では「ベースボールルール」という解釈があり、バットやボールが飛んでくる危険性を理解したうえで観戦するといった、法律用語でいう「危険の引受」をしている前提での観戦なので、球団や球場側が敗訴することはないようなのです。要は臨場感あふれる場所での観戦の自由があるのなら、危険な場所以外での観戦も自由であるという考えです。但しこのルールはあくまでも「野球観戦中」のルールであり、例えば試合前の練習中など野球観戦に集中しない状態での危険負担は球団側にあるようです。
 この事故において、失明された女性は不運でお気の毒であったと思います。ただ、この判決が将来的に球団側敗訴で確定されたならば、法的に今の球場の安全対策が不備と判断されたことになります。そうなると今以上に観客席はグラウンドと遠ざかるか、全席ネットを張り巡らさなければなりません。また、それ以上に観客が楽しむ行為(ウェーブや風船飛ばしや飲酒など)も安全性を考えて球団側が規制することも考えられます。更に今の観客席の前後高低差では安全性が確保できないと判断されるなら、高低差の少ない段差に改良された結果、前の席の人の頭でゲームがとても見づらいなどの弊害が発生することも容易に考えられます。
 要は、自身が楽しむ為に、どこまで自己責任をもつのかという事が重要なのではないでしょうか・・・。

ジャーマンウィングス9525便

 ドイツの格安航空会社ジャーマンウィングス9525便が150名もの乗客乗員を犠牲に墜落した事故はご承知の通りです。私がこのコラムを書いている時点でボイスレコーダーの解析によって仮定できたことは、機長がトイレの為コックピットを離れた隙に締め出されてしまい、副操縦士が意図的に墜落させた可能性が高いということです。これを見て私がすぐに思い出したのは82年のホテルニュージャパン火災の翌日に起きた日本航空350便の墜落事故でした。この事故は本件と違い副操縦士も隣にいた事例ですが、着陸寸前の出来事であったため墜落は免れず149名の負傷者と24名の死者を出す惨事となりました。この二つの事例は共に機長や副操縦士という多くの乗客の命を預かるキーマンの精神疾患が原因の可能性が高い事例です。これらは機体の故障や欠陥等のチェック体制を厳格にし、見過ごすことがなければ事故が起きないケースとは根本的に異なり、性善説的に乗務員が墜落行為を行うはずのない前提で考えられているために起こり得た事故です。前例の機長が締め出された際も、万一客室から容易にコックピットの扉が開く構造になっていれば墜落は回避できたかもしれませんが、そうなっていれば逆にハイジャック犯はもとより、いたずらなどでもコックピットに侵入できるような構造であれば安全性に問題があると言えます。また後例では操縦する者が誤操作を行った場合の安全策は講じられていたとしても、意図的に誤操作をさせる前提での安全策は講じられていないものです。
 いずれにしても、人が自力でできない空を飛ぶことや陸上を高速で移動すること、水上を渡ることなどを文明の利器の力を頼って実現させるためには、リスクはつきものです。ただ、こういった犠牲などをきっかけに、安全対策が高められていくのも一つの現実です・・・。