いつの時代も「最近の子はダメだ」とか「最近の日本語はなってない」など
と言われます。しかしよく考えてみますと、私が10代の時にも、諸先輩方から同じことを言われていましたし、私の少し上の世代でも、ヒッピーやみゆきなどの族が流行っていたり、そのまた上の世代もロカビリーや六本木や太陽などの族が流行ったりして、その時々の諸先輩方は同じように嘆いていたようです。それらは、恐らくその前やそのまた前の世代も同じ事を繰り返していたはずです。それはどの時代の若者も、既成の世界や世間体に対して反発心を抱くことが当然であり、またそういった気持ちも意味あるものと思いますので、諸先輩方から見た「最近の若者」の存在はいつの時代も必要なものなのでしょう。 よく考えますと言葉や生活様式、流行などというものは、時代によって変化していくのは当然のことで、それに加えてその時代に常識とされていたことや言語さえも変化していきます。昔からある文化や伝統を後世に承継していくことは、日本という文化の豊かな国に生まれた人間としての義務でることは間違いありません。しかし、今までの歴史を見る限り生活様式はもとより、言語や常識については、いったい何をもって「正解」とすべきであるかは議論すべきことであるように思います。極端な話、昔からある言葉や文字が「正解」なのであれば、例えば平安時代の言葉や文字を「正解」とするならば、既に江戸時代で「正確」な日本語でなくなっていることになります。もっと近くで大正時代や昭和初期の文字や言葉を「正解」としても同じことが言えます。それなのに事あるごとに「今の日本語は間違っている」という人を見るたびに、それはだれが決めた日本語?と思います。
そう考えますと今言われる日本語の「正解」って、どの時代のどの日本語なのでしょうか?・・・。
と言われます。しかしよく考えてみますと、私が10代の時にも、諸先輩方から同じことを言われていましたし、私の少し上の世代でも、ヒッピーやみゆきなどの族が流行っていたり、そのまた上の世代もロカビリーや六本木や太陽などの族が流行ったりして、その時々の諸先輩方は同じように嘆いていたようです。それらは、恐らくその前やそのまた前の世代も同じ事を繰り返していたはずです。それはどの時代の若者も、既成の世界や世間体に対して反発心を抱くことが当然であり、またそういった気持ちも意味あるものと思いますので、諸先輩方から見た「最近の若者」の存在はいつの時代も必要なものなのでしょう。 よく考えますと言葉や生活様式、流行などというものは、時代によって変化していくのは当然のことで、それに加えてその時代に常識とされていたことや言語さえも変化していきます。昔からある文化や伝統を後世に承継していくことは、日本という文化の豊かな国に生まれた人間としての義務でることは間違いありません。しかし、今までの歴史を見る限り生活様式はもとより、言語や常識については、いったい何をもって「正解」とすべきであるかは議論すべきことであるように思います。極端な話、昔からある言葉や文字が「正解」なのであれば、例えば平安時代の言葉や文字を「正解」とするならば、既に江戸時代で「正確」な日本語でなくなっていることになります。もっと近くで大正時代や昭和初期の文字や言葉を「正解」としても同じことが言えます。それなのに事あるごとに「今の日本語は間違っている」という人を見るたびに、それはだれが決めた日本語?と思います。
そう考えますと今言われる日本語の「正解」って、どの時代のどの日本語なのでしょうか?・・・。