吉野家

 「大盛りと玉子、あと味噌汁ね」という小さい頃から馴染みの牛丼が、各チェーン店のメニューの中から姿を消しました。私は「吉野家」の牛丼が無くなる日の夜、先ほどのメニューを注文して最後の晩餐を満喫しました。「吉野家」と言って思い出すのが、キャッチフレーズの「はやい・やすい・うまい」という方が多いと思いますが、私はその昔TVのコマーシャルでやっていた「やったぜパパ。明日はホームランだ。」というフレーズです。そのTVコマーシャルが放映されていた頃は、現在ほどの店舗数がなかったことや、当時の価格を考えてみても、「牛丼が食べられる」というと物凄く嬉しかったことを思い出します。現在では店舗数も国内986店舗、海外226店舗(平成16年1月末現在)と増え、全国至る所で食べられることや、価格も並盛りも280円と、コンビニで昼食を買って食べるより遥かに安く食事ができることなどから、非常に身近な食べ物となりました。
 嬉しかったといえば、昔はマクドナルドも非常に高価な食べ物という認識で、今でこそバリューセットなどがあり、そこそこ普段に食べられる金額となりましたが、私が記憶している昔の「ビックマック」単体の価格は確か500円から600円位していました。その当時の私の胃袋というのは1個のハンバーガーで満足できるはずもなく、フライドポテトLサイズにファンタLサイズ、更にハンバーガーは3個は注文し、一人2000円位かかるのが普通でした。それくらい出費しないといけない為、兄弟が5人もいて、ただでさえお金のなかった大薮家にとっては、「マクドへ行く」ということは、それこそ年に1度は来るクリスマスよりも貴重なイベントであったのでした。
 そんなことを考えていると、今はすごくいい時代になったんだなあと、つくづく思えます。しかしここで逆に考えてみれば、いつでも行ける「吉野家」や「マクドナルド」という存在は、何か特別なことが無いと行けない頃のそれらより、ありがたさを感じられなくなってきていることは確かです。それは逆に言えば、大げさでなく感動を覚える機会が減ったということに繋がるということではないでしょうか。今ならすぐ買えるものでも、当時はすぐ買えなかったですが、買えたときの感動はあります。いつでも食べられないから、食べられたときに感動します。すぐ買い与えられないから、買い与えられたときに喜びを感じます。
 物が溢れている時代に感動を得られるのはどういう場合でしょうか・・・。