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身体障害者用駐車場

 先日、「車いす駐車場に停めません条例(仮称)」の制定を目指して活動されている名張市の市民グループ「ユニバーサルさくら」さんの活動が、朝日新聞の伊賀版に掲載されていました。この記事を見て私は、昨年に不覚にも踵を粉砕骨折した際に、ギブスをして松葉杖を使って歩行していたときのことを思い出し「そうそう、エエ事やってはるわ」と思わず独り言を言っていました。それはその骨折した頃、スーパー等に買い物に行ったときに、身体障害者用の駐車場が一番入り口の近くにあり、スペースもとても広かったので、良いのか悪いのか分かりませんでしたが、私が停めても1台以上空いていたらそこに停めて買い物などをしました。その時私は身障者ではありませんでしたが、骨折の為に歩行するのがとても不自由していましたので随分と助かった記憶があります。でも流石に1台しかない時などはその駐車場に停めませんでした。しかし、私が買い物を終えて車に乗り込むときに見かけたことですが、健常者の方が、わざわざ車止めを除けてまで平然と身障者用の駐車場に車を停めて買い物に向かったときには、怒りというよりも軽蔑の思いでその人を見てしまいました。
 後でよく考えて見ますと、恐らくそのときに私が骨折をしていなく、又そんな経験も無かったら、そこまでは思わなかったと思います。それは私自身が不自由な思いをしたからこそそう思ったんだと思います。しかし私が不自由だったのは、一生の内のほんの短い期間です。時間がたてば恐らくそういった怒りや軽蔑の感情はだんだんと薄れていくでしょう。でも身障者の方はその状態が続く限り、不自由な生活をされます。そう思うと私が見たそういった心無い人たちの出来事は、日常の生活をされているときに幾らでも遭遇する場面ではないのかと思います。
 先述に私は、「心無い人たち」とあえて書きましたが、そのような行動をする人は、実はそういった経験や、身近に身障者の方がいない環境にあるだけで、私もそんな思いをしなければ同じことをしていたかもしれません。私が思ったことを正直に言うと、骨折をするまでも身障者用の駐車場に停めませんでした。なぜ停めなかったのかというと、「そこには停めてはいけない常識」があったから停めなかっただけで、「困る人の気持ちや不便さが分かるから」停めなかったのではありませんでした。
 いろんな人の立場に立って考える事の難しさや、そのことの重要性をもう一度見つめ直してみましょう・・・。

冬のソナタ

 一ヶ月位前に妻が、借りてきたドラマのビデオテープを、自分のビデオテープにダビングしていました。私は何も気にせずにリビングで寛いでいましたら、「今からちょっと用事があるねんけど、もうちょっとでテープを変えんとあかんから変えといて。」とテープの見張り番をさせられました。そのダビング作業は数日前から妻が、一生懸命に何本も行っていまして、「ようもそんな面倒なことやってるわ」と私は思うくらいでした。
私は見たくもないそんなドラマのダビングの見張り番をさせられて、正直「何でこんな時間潰しせなアカンねん」と思いながら、ただ見るでもなくぼーっと座っていました。しかし全く不思議なもので、私は全く興味の無かったそのドラマを一話、また一話とビデオテープに収めていく度に、今の日本のドラマには無い純粋さがありながら、しかし速すぎるストーリー展開にグイグイ引き込まれていき、とうとうダビングの途中で「はじめから終わりまで一貫して見てみたい」という衝動に駆られ、途中からはダビングしながらも全くストーリーを見ることなく終了させてしまいました。
そのドラマとは、もうお分かりでしょうが、そう「冬のソナタ」なのでした。それからというもの早速インターネットオークションで、全20巻の DVD を購入し、仕事も早々に切り上げ、そして毎夜遅くまで第一話から第二〇話まで一気に見てしまいました。更に今まで私は、携帯の着信音は「電話のベル」の音か、バイブレーターにしていたので全く着メロには興味なかったのですが、あの主題歌を身近に感じていたいと思い、初めて着メロを入れてしまいました。
 世間が一番騒いでいる頃には全く興味が無かった、いやどちらかと言うと私の性格では、世間が騒ぐから敢えて自分は興味を示さないという天邪鬼な性格なので、ヨン様ファンや妻には「あんなんどこがええねん。そんな純粋なドラマおもしろないやろ。おれは絶対にハマらん。」と言い切っていましたが、なんのなんの、主人公ミニョンさんの髪形をちょっと意識してみたり、主題歌の入った CD まで買ってしまうという熱の入れようで、全然妻よりハマってしまいました。
 今年の冬は、もしゆとりが出来たら韓国へ行ってみたい、と密かに思う今日この頃です・・・。

犯罪被害者救済制度

 先日インターネットのニュースで掲載されていたある記事に目が止まりました。それは、「知人男性を暴行、監禁=女子高生コンクリ事件の元少年」というものでした。1988年に東京都足立区で女子高生を監禁した上で、長期にわたる暴行により殺害し、死体をドラム缶でコンクリート詰にして放置したこの事件は、過去の少年事件の中でも特に凶悪かつ自己中心的犯行で、許し難い事件として非常に世間を騒がせました。その事件に加わった内の一人が、出所後に先述の事件を起こしたというのです。
皆さんはこの出来事をどう捕らえられますか?恐らく私を含めこのコラムを読んでいただいている皆さんの第一印象は、「何でそんな事件を二度も起こすような人を出所させるの?」というものではないでしょうか。
 そういう風に思うことは、私たちが日々安全に、また日々安心して過ごす為にはごく当然の思いですし、当然の権利でもあります。
しかし、逆の立場(犯罪を犯してしまった人)から物事を捉えてみますと、本心から反省し、その犯した罪を一生をかけて償っていくという決意で、被害者への保障や、また自身の生活をしていこうとする場合は、まず仕事をしていかなければなりません。しかし、就職した後や新転地で過去が知られてしまった場合等は、中々その居場所が確保できなくなってしまいます。それは、「そんなことをしたから当然だろう。」と言う意見もありますし、逆に「そんな事ではいつまでたっても更生できないじゃないか。」と言う意見もあります。確かにどちらの意見も正しい意見でありますし、それぞれの立場で状況や思うことが違うのは当然です。また違う見方では被害者側の家族などは、自分の身内がそんなひどい仕打ちを受けているにも拘らず、世間の噂やマスコミの餌食にされて精神を病んだり、普通に暮らすこともできず、転居せざるに得ない状況に追い込まれたりもします。
 これらの意見や状況は、それぞれの思いとして共に交わることのない、また、解決することが非常に困難な課題と言えると思います。ただそれらの中で、工夫や制度の充実度次第では和らげることができる可能性のあるものがあります。それは、「被害者側家族の救済」です。しかし現在の日本の制度では、「犯罪被害者救済制度」というものが存在しますが、遺族に支払われる遺族給付金が1079万円で上限という金額です。更に被害者家族のプライバシーや、生活が守られる法律がまだまだ整備されていませんし、精神的なケアーをする制度なども確立されていません。
 こんな部分からだけでも救済の間口を広げていって欲しいものです・・・。

キャンプ2

 この夏休みに、甥・姪・その家族総勢20名と毎年恒例にしているキャンプに行ってきました。昨年は私が恥ずかしながら、かかとを粉砕骨折してしまいましたが、今年は全員無事に帰ってくることが出来ました。 
 もともとは、甥・姪10名程度と大人2人で夏と冬の年2回で始めたキャンプも、夏場だけは女性陣も「寒くないから私達も連れて行け」とばかりに加わり、大人数のキャンプになっています。
 キャンプを始めた頃の子供たちは、幼児から小学校高学年までの子供たちだったのですが、今は最年長で中学校3年生になり、また下の子は最初のキャンプにはまだ「存在」していなかった子供達までになり、年齢層もかなり幅広くなってきました。 
 何度も申し上げていますように、私には子供がいません。そのためか、子供たちと接する私は、それぞれの親になっている大人が、子供たちと接する感覚と少し違う接し方をしているようで、子供たちから見た私を敢えて表現してみると、「自分たちの最年長者(リーダー)であり、仲間であるが、親と同じ大人である」と、こんな複雑な感覚のようです。
 そんな感覚のリーダーから、「キャンプで食べる自分たちのメシは、自分たちで考えたメニューとお金と手間でやりなさい」と言われたものですから、お年玉やお小遣いをせっせと貯める子や、キャンプぎりぎりになって親の肩もみして小遣いを稼ぐ子など、それぞれの性格がよく出ます。また食事の当番は、「男子・女子」チームに分けてそれぞれが全員の料理を作ることにしているのですが、メニューなどは、女の子は非常に細かく考えているもので、材料の買出しや献立を考えているメモなどは流石です。逆に男の子は、本当に大雑把な献立と買出しでやるのですがこれが不思議、ちゃんと出来て、また非常においしかったりするのです。
 こんなキャンプを子供たちは、今はすごく楽しみにしていてくれているようで何日も前から事前に準備をしています。でも実は、特に私や、親たち(特に子供から解放される冬のキャンプ?)が一番楽しみにしているのかもしれません。しかし、そんなキャンプも現実にはあと何年か経つと、私もその年頃ではそう思ったように、「そんな子供じみたこと友達に恥ずかしくて、もう出来るか」と言い出す子が出てくるんだろうなあと思うと、寂しくなってきてしまいます・・・。

仕事

 本来「仕事」というものは、何かしら労働を行い、その対価として代金や賃金などをいただくと言う行為ですが、その労働時間や、成果が上がれば上がるほど、代金や賃金が上がっていきます。しかし、忙しければ忙しいほど、その労働は「暇よりは全然良い」という感覚にはなりますが、比例して金銭の入りが多くなると言うものでもありません。
 世の中にはいろいろな種類の「仕事」が存在しますが、殆どの業種が先述の「忙しければ、暇よりぜんぜん良い」仕事であるにもかかわらず、その例外の「暇であれば暇なほうが断然良い」業種も存在します。例えば、消防隊員や警察官などの職業です。これらの仕事は私たち国民がより安全な生活をしていく為には絶対に必要な職業ですが、先述のように「暇であれば暇」なほど世間が平和であり、平穏な生活が送れているということだと思います。
 そんな「暇なほうが良い」であろう職業のうち、兵庫県自動車警ら隊が先日、本末転倒の不祥事を起こしました。それは、検挙の件数にノルマを課せ、それを達成させる為に架空の事件をでっち上げ、ノルマを達成させていたと言う不祥事です。これは、極端に言えば例えば消防隊員にすり替えて考えてみると、消防活動の回数にノルマを課せられた消防隊員が、そのノルマを達成できないと判断したときに、自分で火をつけてから消火活動を行うという行為に近いことだと思います。しかし、確かに警ら隊の行った行為は、「火をつけて廻る」ほど世間に迷惑はかけないかもしれませんが、その行為は決して許されるものでないことは明白です。
 では何故、国民誰しもが「そんなことはおかしい」と思うようなことを彼らは日常的にしていたのかと考えてみると、それはおそらくその組織の体制であり、慣れ親しんだ習慣や慣習であるように思われます。そんな習慣や慣習は、それらのほかにも三菱自動車のリコール隠ぺい工作などにもあるように、世間のいろんなところで行われている可能性があります。
 それは組織が大きくなればなるほど、その慣習が長く続いていればいるほど、その過ちを矯正することが困難になってきます。今までは、それらが発覚しづらかったり、発覚しても問題にならないように闇に葬られた時代ではありましたが、これからは当たり前のことが、当たり前に指摘される世の中になってきているようで、ある意味いい時代になってきたということでしょう・・・。

ホットポイズン

 今回は、私達が私的に行っている活動をこのコラムで紹介させていただき、ご興味のある皆さんの参加や、ご協力者を募りたいと思います。
 現在名張市に暮らしている若い人たちが、それぞれに趣味を持ち、練習や活動している事として、スケートボードや、ダンス、BMXや音楽のバンド活動などがあります。そんな人達と、ある人のとの関係で偶然に知り合いになれました。その人たちと話をしていると、皆口を揃えて言うことが同じでした。それは、
「自分たちがやりたいことを、名張市内ではできる施設がない。施設がないから駅前広場や公共の広場で活動していると、近隣からの苦情で締め出される。もし、それらができる場所があれば、現在活動している自分たちのグループだけでなく、潜在的にそれらをやりたいと思っている人たちや、違ったところで活動している人たちとの交流などができて、自分たちも含めてもっと有意義に活動ができていくのに。」と言う意見でした。 
 こんな話を聞いていると、ある人から言わせれば「そんなやりたいことの施設を作る為に自分たちはどんな努力をしているのか。そんな努力をせずに、希望だけ言っていても希望は叶うものか。」という厳しい意見もあろうことかと思いますが、人間と言うのは、人の為なら意見することや努力することができても、自分のことになると中々できないものです。ましてや、これらをやっている若者は、もっと大人の方々みたいに「つて」や「こね」なんかが無く、自分たちでどうしていいものかさえもわからないのが現状だと思います。
 そこで私達の仲間は、「彼らの手助けをしていこう!」と言うことになり、その活動名を「ホット ポイズン」と名付け、彼らの支援をしていくことにしました。
 ここからが本題です。このコラムを読んでいただいている方にお願いします。スケートボードや、ダンス、BMXや音楽のバンド活動などをやりたい、またやっているが施設や仲間がいないので思うように活動ができない人。また、そんな若者の施設を作る為に平地や建物を提供していただける方などがいらっしゃいましたら、是非是非、後記「ホットポイズン事務局」まで、ご連絡ください。心よりお待ちしております。
 あなたの勇気が仲間を、若者を変えていきます。

 ホットポイズン事務局 代表 長岡克明 090-4857-1971

年金計算

 前回のコラムで書かせていただいた年金の件ですが、国会の決議までは、あまり世間で注目されていませんでしたが、最近TVなどを見ていますと、決議した後にようやく年金の特番をやるようになってきました。私達の将来のことだけに、本当は国会の決議の前にもっと世間で注目されるべきところではありますが、私を含めて日本の人々は、事が起ってからしか「これは、えらいこっちゃ!」というふうに思わない傾向があるようです。
 そんな中、先日放映されていました年金の特番を見ていて私は、今まで「年金なんてだいぶ先のことで、自分がもらう頃には殆んど機能してないんやろうし、期待もしてません」なんて、分かったような、分からないようなことを思っていましたが、その番組が進行していくに従い「どないなっとんじゃ、国は。そんなええ加減な事で国民が納得すると思うのか!」と晩酌をしながら一人ブツブツと文句を言っていました。
 前回のコラムや、先ほども書きましたように、今更ながらそんなことを思うのでは本当は遅すぎます。でも、良いように考えてみれば、これで将来の何もかもが決定されたわけでもなく、今から本気で変えていこうと思えば、何とかできるものだと思います。ですからこのコラムを読んでいただいている、ごく少数であろう皆さんも、この機会に少し本気になって考えてみてはいかがでしょうか? っと、こんなことを書いていても、明日になれば仕事に追われ、日々の生活に追われ、中々考える時間や気持ちになれないことが、現実としてのことだと思いますが。
 しかし本来であれば、国がそういった説明を行うべきところを、私自身も、ほとんどわからなかった年金の内容について、その番組がせっかく国になり代わり説明してくれていた中で、ご覧になられた方はしっかりとメモなどを取られて計算されたでしょうが、ご覧になられていない方のために、非常に参考になったところをご紹介してみます。

 「自分が将来受け取れる年金の額」の簡易な計算方法
国民年金の場合
年金を支払った年数 × 二万円 = 年間に受取れる年金額①
厚生年金の場合
①+支払った年数 × 5500円 × 平均年収(百万円の位)
例えば、サラリーマンを38年、平均年収500万円の場合
(38年×2万円)+(38年×5500円×5)=約180万円

 月にして約15万円です。但し、「現在の制度での場合」の目安ですが・・・。

虐待

 先日父親が、「自分を腹立たせたから」という理由で娘の小指を切り落とさせた事件がありました。また母親は子供が「泣いてうるさいから」という理由で床にたたきつけて子供が死亡するという事件がありました。母が「食事も与えず虐待を行い、父はその行為を見過ごしていた」為に子供が死亡する事件がありました。そんな「普通の感覚」では到底信じられないような事件が、世間では数え切れないくらいの多さで発生しています。そんな事件を知る度に、皆さんもそうだと思いますが、私も非常にいたたまれない気持ちと、その親に対する憤りで一杯になります。
 それとは全く別の事ですが、参議院の委員会で年金法案が、あのドタバタ劇の中で賛成多数で可決されました。この可決の様子をテレビで見る限り、私も含め世の人々の大多数である一般人が思う会議の感覚からして、採決の方法が「普通の感覚」では到底考えられない手段と方法で可決された出来事でした。
この二つの出来事の共通点は「普通の感覚」では考えられない出来事です。でもよく考えてみますと「普通の感覚」というのは、俗に言う「一般常識」や「風習や慣習」から「この場合はこうするもの」というものであり、それは即ちそこの中にいる大多数の人が「こういうふうに思う」ことであると思います。そのことについて誤解が生じることを敢て申し上げますと、前者も後者も「閉ざされた環境」の中で、強い者や多数の人が「これでいい」と思ったことがその中で「常識」になり、それ以外の外にいる人たちから見て「普通の感覚」からかけ離れた行動をとるようになるように思えます。
 しかし、前者は人道的に許されるべきことではありませんし、こんなことが再び起こらないように、それぞれの立場で対策をとっていかなければなりませんし、自分の身近なこととして話し合いを行う為にも、報道も行い周知していく必要があると思います。現実に私の会社でもそういった話題がのぼり話をすることがあります。しかし後者はこれからの私達の生活に非常に重要な事柄を決定している事を、前者と同様に報道がされているにも拘らず何の話題も出てきません。それは恐らく私を含め、前者は「自分さえしっかりしていたら何とかできる」と思うことであり、後者は「自分ひとりでなんともできない」と思っているからだと思います。でも本当は前者も後者も同じように捉えられるようにならなければ世の中が変わっていかないことを、心の奥底では分かっているはずです・・・・・。

yahoo

 最近個人的にハマッていることがあります。それは、インターネットのオークションで「Yahoo オークション」というのがありまして、その中の商品を落札することです。何がハマるのかといいますと、前々から欲しかったけれども、どこのショップへ行っても売って無いものや、非常につまらないものでも普通のショップで売っていないものなど、時間があればあっただけ、探せば探すだけどんどんと商品が出てきます。そして何か興味があるものが出てきますと、その商品の落札希望金額を入力し、時間切れになるまで待ちます。時間切れまでに自分が入力した金額より高い金額が入札されますと、「高値更新!」というメールが送られてきて、「再入札しますか?」と聞かれます。自分がその商品を欲しいなら、「ここまでなら出してもいい」と言う金額を再入力し、それが最高値ならば自分の入札額が、「高値更新!」となり再度時間切れまで待つことになります。ただ、人気商品であればすぐに「高値更新!」と言うメールが送られてきて、その繰り返しをするのですが、もうこうなってきますと、自分が出してもいいと思う金額を超えてしまっても、負けず嫌いの性格を持ってしまっている場合は、「何としてでも買ってやる」と言う気持ちになり、どんどん金額が跳ね上がっていきます。そういうやり取りがあったオークションでは、最終的に落札した時点では、非常に満足感はありますが、少し時間がたてば「何でこんなムキに買ってしまったんやろう」という何とも馬鹿らしい気持ちになってしまうのですが、また別の商品で同じようなことを繰り返してしまいます。
 今までそんなやり取りで落札した商品には、中学校の頃によく聞いていたロックグループのCDや(あの頃はレコードしかなく、そのグループのCDが出ているとは思いませんでした)、潜水艦のラジコン、ダカラ小僧の水差しや、車のタイヤなど本当にいろんなものを落札しました。
 先ほどの私の例のように、ムキになって落札するようなことをしなければ、このオークションは、中々見つからないものを探したい場合や、同じ買うなら安く買いたい場合などは、非常に有効な手段だと思います。
 しかしこんなことは、二〇年位前の私が学生だった頃には、こんな事が机の上のパソコンひとつでできるなんて思いもよらなかったことですが、現実にできてしまう世の中になったということです。そうしますと、これから二〇年後には、どんなことができる世の中になっているのでしょうか・・・。

おやじ

 皆さんは普段生活していて、仕事に限らず当然プライベートでもいろんなところに電話したり、お店に行ったりするときに、話したり、お会いしたりした人たちの対応が非常に悪く、こちらの気分が悪くなってしまうことってないでしょうか?そんな時私はいつも「人のふり見て我がふり直せ」の諺を思い出して、「自分はそうしないようにしよう。」と言い聞かせます。
 それとは逆に、すごく気持ちのいい対応をしてくれる人がいると、こちらの気持ちも良くなり、それがお店なんかだったりすると、少し遠いところでも、わざわざ買い物に出かけたり、食事に行ったりしてしまいます。そんなことを考えていますと、普段から「ちゃんとした応対」をとるということは、商売とかそういったことは抜きに考えてみましても、「人」として非常に大事なことだと再認識させられます。更にもう少し深く考えて見ますと、自分に対して不快感を与えられる事が多く続くときは、実は自分が相手に対してそういった対応をしてしまっているから、その相手もそういった対応をしている場合も考えられますので、自分自身も十分に注意していかなければいけないなと思ったりもします。
 そんなことを考えていましたら、三年程前に亡くなった父と、20歳くらいのときに交わした会話を思い出しました。「おい、ヤス。(父からそう呼ばれていました)お前、店に買いもんに行って、金払った後にどうする?」「お釣り貰って帰る」「そうじゃなくて、もの買うて金払った後、帰るときに“ありがとう”も言わへんのか」「別になんも言わへんで」「お前な、店に買いもんに行ったら当然お前はお客さんや。だからお前は遜ることもないけどもな、もうちょっと感謝の気持ちを持ったらどうや。」「何でぇ?」「よう考えてみい。店っちゅうのは、お客さんが買いもんをすることによって収入を得て生活してるんやけどな、でもな、お前が欲しいものを店に置いてくれてるお陰でお前はその商品を買えるんやで。もしその店がその商品を置いてくれてなかったら、お前は欲しいもんが買えへんねんで。もし、そこで商売してなかったら、全く買えへんねんで。せやから、店出るときはちゃんと“ありがとう”って言うて出てくるのが礼儀やろ。」
 少し強引な言い方ですが、内容的にすごく納得しました・・・・。