カテゴリー別アーカイブ: 2002

仮免許運転中

 「仮免許運転練習中」と書かれた車が、この季節かなりの台数が走り始めます。私自身も十数年前に合宿免許を申込み、長崎で普通車免許の教習を受けました。「ようやく車に乗れる。」という期待を胸に、あっという間の16日間でした。
 その時に受けた教習所での授業は、第1段階(確かこう呼んでいたと記憶していますが)は基礎中の基礎のため、誰しもが通らなければならない道として大変重要な段階であったと記憶していますが、その後の教習については「実際、こんなスピードや、こんな杓子定規に運転するもんやないで」と思いながら運転していました。実際に免許を取得して路上で運転をしたときには、すっかり教習所での教えは頭の隅からもなくなっていましたし、万一教えの通り運転しようものなら、クラクションの嵐の中、逆に交通の妨げになって危険だったでしょう。
 つい先日、話をしている中で、防災訓練の話が出ました。「防災訓練」とは読んで字のごとく災害を最大限に防ぐための訓練です。それが、皆さんも職場や学校、地域の集会で何度か体験されていると思いますが、「これで本当にいいの?これが実際の災害時に機能する訓練なの?」と思うような訓練が多かったと思います。近年に起きると言われている日本各地の大震災に向けて不安だけが残ります。 今の社会では、こんな事柄を挙げればいくらでも挙げることはできます。
 それは恐らく、現在必要とされる事柄に応じた改善をしない関係各所の努力不足もあると思いますが、実際に被害を被ったり、当事者になるはずの国民の方々が、真剣に改善を要求しない事が一番の原因だと思います。 そんな中、そう思い立った私は、何か少しでも改善したり、意識改善ができればと、平成15年2月に行われる「七市町村合併の住民投票」について、自分たちのまちの事だから自分たちの意見を反映させる為に投票へ行こう、という「市民投票啓発市民活動グループ」で活動を始めました。賛成・反対ということでなく民意を行政に反映させようという会です。
 我こそはと思う方、ご興味のある方、お気軽に左記までお問い合わせください。 お待ちしております。
TEL:0595-63-1616 (社)名張青年会議所内 「市民投票啓発市民活動グループ」

悪が得

①「あのような人が、こんなことするとは」
②「あんな人が、こんなことをしたんだ」
 前者は、普段から行いが良い人が失敗したり、悪いことをしたりすると言われる言葉です。後者は、普段あまり何もしない人や悪事を行っている人が、良い事や、世の為、人のためになることをした場合に言われる言葉です。
 私は、この言葉を聞くたびに思い出すことがあります。それは学生時代に思い続けた「悪いやつが徳をする」という思いです。
普段から「見本となる」生徒や、それを演じている生徒が、何か一つ失敗したり、気が緩んだ行動をしたら①のように言われ、普段から「不良」と呼ばれる生徒が、いつも自分のしたいように行動をとっているにもかかわらず、何か一つ目立つ事で良いことをしたら②のように言ってもらえます。
 確かに、「不良」によい行いをさせたり、考え方を変えさせる為には、褒めることはすごく大事なことだと思います。しかし立場を変えれば、やりたいことを我慢して、その「不良」が褒めてもらっていることを普段から普通に行っている「見本となる」生徒は不満一杯で納得できないでしょう。
そう考えると「自分も好き勝手して、ちょっといい事をするだけで褒めてもらえるならそうしよう」と思う「見本となる」生徒も出てくるような気がしました。でもあまりそんなことを人から聞いたことはなかったので、学生時代にそんな事を考えているのは自分だけだったかもしれません。
 しかし社会ではどうでしょう。そういうことがあっても当たり前、という考えがあってか、政管民の癒着、企業の不正等今までにも国民が薄々感じてはいましたが、表面に出ず堂々と不正が行われてきました。最近になってようやくその一部が表面化され、「悪事は悪事」として報道されるようになってきました。でもそれが報道されるようになり、本当に一生懸命に努力し「見本となる」ようにしている企業や政治家が迷惑を被っていることも知っておかなければなりません。(石井議員が自宅前で刺殺された際、「正義の政治家を亡くしました」と言われました。しかしなぜ議員に「正義」とわざわざつけなければいけないのでしょうか。当たり前に「正義」であっていてほしいのですが。)
 汚れた水を浄化する浄水器のごとく、悪事などをを浄化する装置の開発がされることを願います・・・・。
このコラムでは、これからも私の身近に起こった出来事や感想、皆様からの御意見・御希望等を定期的に掲載し、伊賀地区にお住まいの皆様と私共とのささやかなコミュニケーションを育ませていただければと思っております。何か思い立つことがございましたら、是非 E メールやフリーダイヤルでお寄せください。心よりお待ちしております。

CM 1

 何の CM か忘れてしまいましたが、非常に心に残っている CM があります。
 それは、「雪の降る中、一人の女性が通りがかりの男性に何やら物乞いをしているようでした。男性はその後、待ち合わせしていた友人とバーで酒を飲みます。友人はその男性のやり取りを一部始終見ていたようで男性に訊ねます。「お前、あの女性にお金をあげたのか」と。さらに友人は「あの女性はいつもああやって人を騙してお金をもらっているんだぞ。お前も騙されたんだな。」と男性を笑います。すると男性は、「よかった。そうすると病気の子供は本当はいないんだ。」と嬉しそうに遠くに目をやりました。友人はその男性の言葉にバツ悪そうに苦笑いしていました。」
しかし皆さんこの男性の感性は凄いと思いませんか?私はこのCM を思い出すたびに心が洗われます。(当然TV の世界の出来事であり現実ではありませんが。)
 人に騙されたことより、自分が心配したまだ見ぬ見知らぬ子供のことが出てくるという、本当に心のきれいな人です。
 しかしなぜその男性はそのような考えになったのでしょうか。「友人に馬鹿にされたくない一心で苦し紛れの言い訳をした。」とか「自分の子供が病気で苦しんでいる。」とかいろいろ考えられますが、私としては「物乞いの女性が迫真の演技をしたからそういう風に考えたのであって、下手であれば「騙された!」と思うかもしれない。」と思いました。そう考えると、その男性の感性が素晴らしい事は当然として、私のような普通の感性の持ち主でも「迫真の演技」を目前でされ、それに心打たれてお金を渡したならそういう風に考えることもあるだろうと思いました。
 結局のところ人の考え方や感性というのは、その人の立場になってみて始めてわかるもので周囲からは理解できないことがたくさんあります。例えば「そんな苦労をよくやるよね」や「よくそこまで人のためにするよね」とか言われる人がいます。しかし、その人は周りが思うほど「苦労してる」とか「尽くしている」とかを思っていない場合が多く、その苦労や尽くすこととは違ったところでその人の「喜び」や「楽しみ」があるからこそやっている場合が多いようです。人間は精神的にあまり強い生き物ではなく、何事も「苦労している」と本心から思いながら長続きするケースは稀です。
 そういう考えの為か、私自身も「苦労」には滅法弱いので、何か大変そうな事を行う場合には、「同じやるなら楽しく」やったほうがいいに決まっているという考えの下、常に「楽しく」できるように環境や気持ちをもっていこうと努力しています。それが周囲の人達を巻き込んで、結果として良い影響を与える場合もあります。
 しかし、言うほど簡単なことではありませんが・・・・。

水戸黄門

 「静まれ 静まれ!この紋所が目に入らぬか。この方をどなたと心得る。恐れ多くも先の副将軍 水戸光圀候であらせられるぞ。ええい頭が高い。ひかえおろう!」
 水戸黄門の名台詞です。幼少の頃、親が毎週毎週、同じ展開のドラマを楽しみに見ているのを「何で飽きないのか」と思いながら眺めていました。
しかし最近、たまたま付けたTVで再放送の水戸黄門が流れていて、見るでなく、なんとなく目に入っていたのですが、そのうちにだんだんと夢中になり、先の「静まれ…」の場面を期待し始めました。そして悪代官が、驚きと落胆の表情で黄門様のお裁きを聞いている場面でなぜか「気持ちの安らぎと爽快感」を感じ、そこで始めて親が興味を持って毎週見ていたことが少し理解できました。
 でも、よく考えてみれば、水戸黄門に限らずブラウン管の向こうの世界は、「完全悪」と「完全正義」が存在してこそ成立するものです。そして正義が悪を滅ぼすことで先ほどのような「安らぎ」や「爽快感」が得られるのです。しかし現実の世界はというと、そんな「完全悪」が存在すること自体非常に稀です。先ほどの「完全悪」と定義されそうな人達にも、家族や愛する人達が存在するはずです。そしてその家族や愛されている人から「成敗」した人を見ると、「なんてひどい人」となります。
 もし、ドラマの中で「完全悪」の人達の家族愛を表現する場面が延々流れて、その後に「成敗」されたら、見ている人はどんな気持ちになるでしょう。もし、仮面ライダーの「ショッカー」のようなすぐに殺されて当たり前の脇役の人達の生活を映し出した後に、いとも簡単に殺されてしまったらどんなドラマになるんでしょうか。多分、ドラマとして成立しないと思います。
 私たちが普段何気なく見ているメディアは、そういった「完全悪」と「完全正義」に分けたがるように私には見えます。それは今起こった事件の原因、背景を探らずに「悪事」としてだけ報道し、そのことを「悪事」としてだけ報道する。視聴率や販売率のために「完全悪を成敗」する場面を作りたがる。原因をもっと探り、報道を受け取る側にその事件を「考えさせる」ことをせず、考え方を押し付けるような報道をする。
 でもそれはすべて水戸黄門的な「完全悪を成敗する」ことに興味を持つ私たち視聴者や読者が存在するからメディアがそれに乗って報道する、・・・・・いうことを忘れてはならないでしょう。 このコラムでは、これからも私の身近に起こった出来事や感想、皆様からの御意見・御希望等を定期的に掲載し、伊賀地区にお住まいの皆様と私共とのささやかなコミュニケーションを育ませていただければと思っております。何か思い立つことがございましたら、是非Eメールやフリーダイヤルでお寄せください。心よりお待ちしております。

拉致

 【拉致】・・・無理に引き連れていくこと。引致。「不法ー」 (旺文社 国語辞典より)
 世間では北朝鮮による拉致事件について連日の報道があります。事件の真相が明らかになる度に、ご家族の心境には到底及びませんが、いたたまれなく、そして非常に残念に思い報道を見つめております。私たちにとっては、報道が始まった時点からの心配事ですが、ご家族にとっては「拉致」された20年以上前からの心配事で、幾夜も眠れぬ夜を過ごされたことと思います。
 現在の私たち日本人にとって、今回の「拉致」については到底理解できない事件であり、決して許されるべきものでないことは、万人が一致した意見だとは思います。
 日本人のほとんどの方が「許されるべきでない」と感じ、国家的に批判を受けるような行動をなぜ、北朝鮮の一部の人たちは起こしたのでしょうか。それは国家的背景、民族間の思考、思想の相違等、いろいろと原因が複雑にあるとは思いますが、その答えは過去の歴史を振り返れば少しは答えが出てきそうです。
 明治維新以降の過去の日本は、大陸等の植民地支配を行い、その時にとった行動は、現在の日本人にとって信じ難い行いがあったと伝えられております。その時代の日本人の思想は、現在では理解しがたく、軍事国家としての正統を貫いていました。そう考えれば、その時代に植民地支配下にあった人々は、当時の一部の日本人の行動を「許されるべきでない」と思っていたことでしょう。
 そういった過去の歴史や背景が複雑に絡み合って、この双方の問題の解決は非常に難しいものだと思います。ただ、双方の時代は違うとはいえ、お互い行った「拉致」や「過去の一部の日本人の行動」が許されるべき問題でないことは明白です。
 しかし、今回の「拉致」に関した出来事で、私個人として非常に腹立たしく残念なことがあります。それは在日朝鮮人に対し「人民服を着た女子学生に罵声を浴びせたり、暴行を加える」「嫌がらせの電話や、手紙を送る」等の日本人がいることです。何故、特に女子学生や子供等の弱者に対しそのような事をするのか、そのような行動が「拉致」を行った事とその人たちにどういう関係があるのか。北朝鮮の「拉致」関係者に対し行うならまだしも、関係のない身近にいる北朝鮮人の方に嫌がらせを行う・・・・
 現在を生きる同じ「人間」として許せない行動です。
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上司

 つい先日、知人と話をしている時、その知人が「一生懸命仕事をやっているのに、上司はそれを認めてくれない」と不満をもらしていました。その知人は「あんなことも・・・、こんなことも・・・、自分のできる範囲でこれくらいやっているのになんであんな言い方しかでけへんねんやろう?」と。
 この問題、人と人の関係の中で、身近によくあることだと思いますが、お互いにとって気分のいいものではありません。
話を聞いているうちにわかってきた内容は、どうやら「上司は、知人のできる範囲内で仕事を一生懸命やっているのは認めるが、その上司が求めることをやっていない」という感じでした。この場合ですと、知人は認められた部分があるのでまだ良い方ですが、全く認められない場合も多く、そんな場合はやる気が失せてしまうでしょう。
 しかし、自分がいくら一生懸命やっていても人は基本的に自分勝手な(自分の目線で物事を捉える)思考の生き物ですから、物事を依頼した者や、上司の立場からすれば、求めていたものや、期待しているものと違った結果が出たら、やってもらってないのと一緒と考えるのは当然です。
そう考えると、極端な表現をすれば、一生懸命やっていなくても、相手の求めている結果が出たら「よくやった」「お前は良く頑張った」となり、相手の求めている結果が出なかったら、「ダメじゃん!」となり、結局は「自分自身がどれだけ頑張ったか」ではなく、「どれだけ期待に応えられたか」がその場面では重要な事ではなかったのでしょうか。そのあたりの考え方の違いが前述の不満に現れたのだと思います。この事は、会社の中だけでなく、日常生活の中でも問題になり得る事柄です。
 会社でよく仕事をこなす男性の多くは、家庭から非好意的に思われることが多いのですが、それは「俺がバリバリ仕事しているのは、現在、そして将来的に家庭を安定させる為だから、少々我慢しろ」的な考えですが、その目的である安定した「家庭の人」たちは「多少お金で苦労しても、もっと家庭にいて触れ合う時間が欲しい」と思っているかもしれませんし、逆に「自分はバリバリやってるつもりかもしれないが、もっとバリバリ仕事してもっと稼いで欲しい」と思っているかも知れません。 こんなことを書いてはいますが、「じゃー、お前はできてるのか?」とは言わないでください。人には言えても自分では中々できません・・・・・。

タマちゃん

 3連休が2週続き、秋の行楽シーズン真っ盛りの週末を皆様はどのようにお過ごしになられておられるでしょうか?お疲れの出ない程度に思い切り羽を伸ばしてください。 毎朝TV をつけますと、先週にも触れました大企業の納得のいかない不祥事のニュースとともに、「当人」はどのように考えているのかはわかりませんが、最初多摩川で発見された「タマちゃん」が全国的に注目を集めています。
 今の暗いニュースが続く中で、「タマちゃん」のニュースは、心配しながらも何かしら心が和むニュースではあります。しかし、このようなニュースが流れるたびにいつも思うことは「人間は自分勝手な感情を持った生き物」だなと。
何年か前に話題になった皇居のお堀を横断するカルガモ親子や、猿の捕獲騒動等がありますが、これらは日本人が「彼らのため」に何とかしようと心から手を尽くした話題でした。少し違う視点でこれらを捉えますと、種類は違いますが鴨はすごくおいしい鳥の一種ですし、猿は中国では最高級食材になったりしています。日本人としては牛と触れ合える公園の横でバーベキューを楽しんだり、浴槽で泳いでいる魚を見て「この魚は活きが良くて美味そうだ」と、いつも慣れたことはぜんぜん残酷ではなくて当たり前のこととして正当化できますが、いつもと違うことはすごく違和感を感じ、時には残酷に思えたりします。もっと極端なことを考えると、「魚の活け造り」や「海老の踊り食い」は、贅沢で美味しい食べ方で、「牛の活け造り」や「鳥の踊り食い」は非常に残酷に思えるはずです。
 それらは、国際的に問題になっている捕鯨問題にも当てはまります。クジラを食する文化のある日本人は、なぜ捕鯨を反対するのかわからないはずですし、クジラを食しない文化の国の人たちは、なぜ哺乳類のあんなにかわいいクジラを食するのかわからないのは当然です。
そう考えますと、本当に不謹慎で極端なことを言わせていただくとしたら、もし日本人の誰かが「タマちゃん」を捕獲して食したら、どんな反応が出るのか容易に想像できますが、それらの種を食する文化のある国の人が食したら、それをどういう風に捕らえればいいのでしょうか・・・・。
 このコラムでは、これからも私の身近に起こった出来事や感想、皆様からの御意見・御希望等を定期的に掲載し、伊賀地区にお住まいの皆様と私共のささやかなコミュニケーションを育ませていただければと思っております。何か思い立つことがございましたら、是非 E メールやフリーダイヤルでお寄せください。心よりお待ちしております。

長野県知事

 9月も中盤に差し掛かり、朝夕も過ごしやすくなってきました。この様な季節の変わり目には体調が崩れやすくなっていますのでくれぐれもご注意下さい。
さて、世の中は相変わらず「不況」が続く中、東京電力の事故隠蔽事件や、日本ハム関連会社の牛肉偽装事件など今の良くない雰囲気に追い討ちをかけるような事件が続発するのは何とかしてもらいたいものです。
 そんな中、前回このコラムで取り上げました長野県知事不信任議決の締めくくりの選挙結果が出ました。その結果を見て私は「これでよかったんだろうな」と思うと同時に「これからどうするの、長野県民は?」と思いました。
 前回のコラムでも書きましたように、知事を選んだのも、県議を選んだのも県民です。そう考えるとすごく興味が沸いてきたのは、知事に真っ向から対立した県議が“次回の県議選でどういう面々が当選するのか”ということです。
 今回の選挙結果を踏まえてストレートに考えれば“反対した県議は落選”で新人や、今回の選挙後に知事派に寝返った“親 田中派”が多数当選するように思えますが、そんな単純な構図は、現在の日本の選挙ではありえません。
それは一見残念なことのように思えますが、私としては ” 親 田中派“が多数当選するようなことがもしあったとしたら、逆に非常に残念なことだと思います。
 何故なら、賛成者や理解者は何事をするにも必要であります。ただ、反対を唱える者がいない話し合いや会議は、なんとなくダラダラと進み、逆に適度の反対意見や指摘のある話し合いでは、緊張感を持って進めていけたという経験は皆さんにもあると思います。(しかし、何でも反対する人が多すぎると話し合いにはなりませんが。)
 それは良い・悪いは別として、あれだけ個性のある知事は、敵が多ければ多いほど能力をフルに生かせ、日々の努力を怠らなくなるのであって、もし大多数の「賛成者」がつけば日々の努力を行うことやその能力をフルに生かしきれない事もあるのではないかと思います。
この事を私たちにも当てはめ、皆さんも他人事でない今回の名張市議会選は先日結果が出ました。この結果を皆さんはどういう風にお感じになられましたか?

県民の責任

 今年の夏もいよいよ本番を迎え、皆様はいかがお過ごしでしょうか?海に山に海外にと予定を立てておられる方も多いかと思います。街では、盆踊りや夏祭り等もいたるところで開催され、楽しげな風景が垣間見られます。それらは私たちの子供の頃、いやもっと昔からの文化・伝統・習慣をその時代の中心となる人たちが、その時代に合った変化や独自の工夫を凝らして、いい状態で現在まで受け継いできた証拠です。そんな文化・伝統・習慣は、私たちの世代が次の世代にしっかりと引継いでいきたいものです。
 そんな中、政治の世界の文化・伝統・習慣は私のような一般人から見ると、どうも理解しがたい文化・伝統・習慣が引き継がれているように思います。少し前のニュースで例を挙げるとすれば、鈴木宗男議員の逮捕前、逮捕後の言動や長野県知事の不信任決議が私にはそう映りました。
長野県知事の不信任決議を県世論調査協会が行ったアンケートで、不信任反対と答えたのはご存知のようになんと61%もありました。これは議会と民意がまったくかみ合っていない証明です。どうして議会は民意を反映できないのでしょうか?私はその出来事を「外野」から眺めているものとしてこう感じました。
「支持する知事」を選んだのは県民です。
「民意の反対の決議をした議員」を選んだのも県民です。
 もし、県民の方が「議会」が誤った判断をしたと思うのならば、それはその議会を構成する「議員」を選んだ県民の判断が誤ったからなのです。要するに良い判断も、悪い判断も全て県民の責任なのです。この激動の時代にはますますこういった「責任」を自覚して、政治や経済の事を真剣に考えていく必要があると思います。「先は分からない」とか「どうでもいい」はもう許されない時代になってきていることは明白です。
名張市も亀井市長になり「改革断行・市政一新」を唱えています。8月には市議会選もありますので、もう私たちも「外野」から見ていられなくなりました。 そんなことがあって、今後は私も「長野県民」と同じ思いをしないようにしなければいけない・・・と決意したニュースでした。

ワールドカップ

 世界がワールドカップ一色となり、世界人口63億1300万人が見守る中、いよいよ明日決勝戦が行われようとしています。今、この原稿を書いている時点では、どの国のチームが決勝へ進んだかわかりませんが、優勝候補のチームが数多く敗退している中、予想外の決勝戦となっていることでしょう。
 新聞によりますとブラジルでは、試合時間が深夜から早朝にかけて行われる為、役所や職場では、午前半休が当然のこととして行われているようです。そんな中、私たち「日本人」は世界のサッカー強豪国とは違い、仕事に、勉強に、家事にと全く今までと同様の日常の生活をきっちりとこなしています。
当然のことながら、サッカーに対するそれぞれの国の国民の認識や、生活への浸透の具合が違う為、どちらがいいのか?は別問題としてとらえるとして、集団でサッカー観戦をしているところを映し出すテレビ画面を見て確信したことが一つありました。
 それは「日本人の大人」が、世間一般で言う「いまどきの日本人の若者」を評価するときの表現で「やる気がない」「長続きしない」「すぐキレる」というのはやっぱり、今の時代を創り上げた「日本人の大人」の責任なんだなと。
 J リーグが発足した当時、日本ではサッカー熱が高まりましたが、すぐにその熱は収まりました。それから数年経ち、日本・韓国でワールドカップが開催されることになり、それまで全く興味のなかった「日本人の大人」までもが興味を示し、今まで「やる気がない」と言われた若者が、日本チームの勝利で渋谷のスクランブル交差点で見知らぬ人と喜び合ったり又、調子のいい元気な若者が道頓堀川へ飛び込む・・などと、とても「やる気がない」若者の行動ではありませんでした。
 やはりそれは、この「若者」を育てた家庭や社会が、「やる気の出る」環境を作っていなかったからです。人は誰しも「熱中できるもの」を心のどこかで探しているはずです。それは「若者」だけでなく、「日本人の大人」も心の中ではそう思っているはずです。その環境を創りあげることが、若者に対してだけでなく、この不況の「日本」を立ち直らせる大きな力になる・・・と再認識したワールドカップ観戦でした。 このコラムでは、これからも私の身近に起こった出来事や感想、皆様からの御意見・御希望等を定期的に掲載し、伊賀地区にお住まいの皆様と私共のささやかなコミュニケーションを育ませていただければと思っております。
 何か思い立つことがございましたら、是非E メールやフリーダイヤルでお寄せください。心よりお待ちしております。