佐野元春と桜井和寿

 先日、車のTVで意識せずに流れていた番組に何気なく眼をやると、私が中学・高校時代にハマっていたシンガーソングライターの佐野元春さんが出演していました。その番組は以前にも一度たまたま見ていた番組で、どうやらそれは佐野元春さんがホスト役で、大学の教室のようなところにいろいろなミュージシャンを招いて対談し、学生?にもゲストに質問させるという内容のものでした。今回のゲストはミスターチルドレンの桜井和寿さんでしたので、お互いがソングライターとしての話をされていましたが、桜井さんは佐野さんが「こういうところは、こうでしょ?」ということに対して、結構そうでもないようなことを言っていて、佐野さんが進行をしにくくなってる様子が面白く映りました。ただ、その中で唯一佐野さんと桜井さんの意見が合ったのが「名もなき詩」の歌詞で「愛はきっと奪うでも 与えるでもなくて 気が付けばそこにあるもの」を佐野さんが「このフレーズができた時はすごく嬉しかったでしょ」と問いかけた時桜井さんが「すごく嬉しかったです」と答えたことでした。その後桜井さんは、「愛は与えるもの」といった世間で「当たり前」や「こうだ」と思われていることは、実はそんな面ばかりでなく、違った捉え方があることを表現できるフレーズを生み出したときに最高の喜びを感じるというような話をされていて、思わず私も納得していたのでした。
 その日の夜にそんな番組を見たことも当然に忘れて、お酒を嗜んで話をしている中で、まともな人とまともでない人の違いの話になり、周りから見てまともでないと思われている人も、周りから見てまともと思われている人も、皆自分はまともな人であると思っているのは何故か?という疑問が湧いてきました。話をしている中で何となく結論めいたのが、誰もが皆、普通の感覚を持っている部分があり、誰もが皆普通でない感覚を持っている部分がある。その中で、周りから見れば、たまたま普通でない部分が強調されていたり、その部分しか見えていない場合は、その人が「まともでない人」となるけれども、自分自身が自分を判断するときは、何故かまともでない部分のみを削除して、まともな部分だけを自分の感覚として捉えているからではないか、ということに達しました。そう考えると、少しずれているなと思えるような人を含めて殆どの人が「私はまともな感覚を持っている」と考えていることが納得できそうです。 
 結局のところ、何の定義を持って「まとも」なのかということ自体、曖昧ではありますが、「当たり前」に自分自身の事を「まともである」と思っていること自体を考え直してみたほうがいいかも知れませんね・・・・。