先日、小林正観さんの「100%幸せな1%の人々」という本を読みました。読んでいる内に、私にとっては結構その本の内容が新鮮でしたので、一気に読んでしまいました。今まで読んだ本は良い事が書かれていても大体は普通に納得できる内容が殆どでしたが、この本は同じ物事でも、一味違う捕らえ方で書かれていましたので、良い悪いは別にして、新鮮な感覚で読ませて頂きました。
例えば、「不幸な出来事や幸福な出来事」というのはこの世に存在しない、というのです。それは例えば父親が死んだとします。普通はそれを「不幸な出来事」と考えますがそれは違うというのです。これは「父の死という事実」と、「それは悲しいという感情」の二つが重なっているだけで、「父の死」という事実自体には、不幸や幸福という概念はなく、ただ、事実が存在するのみで、その事実を受け止めた人がそれをどう捕らえるかによって「不幸か幸福か」が決まるというのです。例えばそれを「父が苦しまずに逝けた事が何よりの幸福」等と考えられるようになれば、全てにおいて自分には”不幸“というものが存在しなくなる、ということでした。また、「イライラさせる人」という”人“はこの世に存在しなくて、その人の事を自分が「イライラ」するという感情を抱くだけで、その人が「イライラ」な”人“ではないんですよと、だから、それを「イライラ」させないでくれと、相手に求めるから自分が辛くなるのであり、自分を「イライラ」しなくなるようにしたら万事解決しますよ、という内容でした。まあ、かなり強引な考え方ではありますが、ある意味「ナルホド!」とも思えます。
そんな中でこの作者を含め、いろんな方が言われている「ありがとう」という言葉を口にするという事は、人間が生きていく上で非常に重要な言葉だということを、最近特に私は実感するようになりました・・・。
例えば、「不幸な出来事や幸福な出来事」というのはこの世に存在しない、というのです。それは例えば父親が死んだとします。普通はそれを「不幸な出来事」と考えますがそれは違うというのです。これは「父の死という事実」と、「それは悲しいという感情」の二つが重なっているだけで、「父の死」という事実自体には、不幸や幸福という概念はなく、ただ、事実が存在するのみで、その事実を受け止めた人がそれをどう捕らえるかによって「不幸か幸福か」が決まるというのです。例えばそれを「父が苦しまずに逝けた事が何よりの幸福」等と考えられるようになれば、全てにおいて自分には”不幸“というものが存在しなくなる、ということでした。また、「イライラさせる人」という”人“はこの世に存在しなくて、その人の事を自分が「イライラ」するという感情を抱くだけで、その人が「イライラ」な”人“ではないんですよと、だから、それを「イライラ」させないでくれと、相手に求めるから自分が辛くなるのであり、自分を「イライラ」しなくなるようにしたら万事解決しますよ、という内容でした。まあ、かなり強引な考え方ではありますが、ある意味「ナルホド!」とも思えます。
そんな中でこの作者を含め、いろんな方が言われている「ありがとう」という言葉を口にするという事は、人間が生きていく上で非常に重要な言葉だということを、最近特に私は実感するようになりました・・・。