平等

 つい先日、友人二人と大阪へ遊びに行く途中の車内での会話でした。他愛も無い会話をしていたと思えば、真剣な話をしだしたり。そんな沢山の話の中で、ちょっと興味を引かれることを話していました。
 私は運転していましたので、はっきりと内容は覚えていないのですが、確かつい先日のTV放映で、公立の先生と私立の先生が、それぞれの立場で討議する番組があったらしく、その討議の中で公立の先生が「平等」ということについて語っていたことが、どうも意に適わぬらしく、友人Aは熱く語っていました。
それは、自分たちの子供の頃の学校は、運動会での「かけっこ」は勿論の事、学習の成績も名前入りで当然に順位をつけられていたのに、今の学校は「成績」や「かけっこ」等にも順位をつけず、「平等」を唱えている。確かにそれぞれの人には「平等」でなければならないが、本当に極端に言えば今の方針では、学校へ行っている間には子供達にまったく競争をさせずに卒業させ、社会に出てから始めて競走をさせるようなことになるのではないか。そんなことで、社会に入ってから今のような競争社会に上手く対応できるのだろうか。という感じの内容のようでした。それを運転しながら何気なく聞いていた私は、極端な事を言うなあと思いながらもこんなことを思ってしまいました。
確かに現在は、男女の平等や、人権など、「平等」が当たり前のように叫ばれています。しかし、それらが叫ばれ出した頃は「なるほど、そうだな」と誰しもが思い、非常によい方向に向かっていると思います。しかし、それが当然のようになってきた今としては、「平等」という言葉だけが独り歩きし、何でもかんでも「平等」にしようとしている節も見受けられるようにも思えます。もっと極端なことをいうと、「平等」にすることによって弊害が生じることにでも「平等」を強いていたり、「平等」にしてほしくない環境の人、例えば、男性と同様に働きたい女性には「平等」はありがたいが、そういう風に考えていない女性にさえも仕事の「平等」を無理強いし、精神的に苦痛を与えているケースも、もしかするとあるのではないのかと思いました。
そんなことを考えていたら友人は、最後にこんなことも言っていました。
もし、乗っているバスがバスジャックされて、ある成人男性が、「老人や女性、子供を先に開放してやってくれ」と言うことに誰が反感を感じるだろうか。逆に「ここにいるのは全員平等だから犯人よ、俺から解放してくれ」という人がいたら、みんなから反感をかうだろう・・・・。