友人

 先日、東京の友人が出張の為名古屋に来るということで、わざわざ名張まで食事に来てくれました。その友人は、私の以前勤めていた会社の後輩の弟で、偶然に会う機会があり、その後一度食事してからは意気投合し、しばしば会うようになりました。最初に会った時彼は、まだ慶応大学の学生で、学生の特権である自由な時間を存分に使い、レーシングカートに夢中になっていました。彼も私と同じく一つの事に夢中になるタイプで、最終的には色んなスポンサーをつけて、全日本クラスでレース活動をし、それなりの成績を残したようでした。現在彼は、大学卒業後すぐに家業を手伝い、精力的に今までとは違う分野の進出などを行っているようです。
 彼が働き出した頃には、当然もうとっくにバブルの時期は過ぎ去り、「不景気だ、不景気だ」と世間は叫ばれていました。そんな中、同業他社が非常に多い彼らの業種で、大げさでなく本当の意味で、その社会で生き残るためのサバイバルレースを、持ち前の「バイタリティー」で日々こなしているようです。
そんな彼は、私が名張へ帰ってきてからも年に1度位はこちらへ来てくれ、互いに近況などを話したりします。私としては、近くに来るからということで電話してきてくれるその事自体がうれしく思い、次の日のことも考えず、ついつい深夜まで飲みながら、語り合ってしまいます。
 彼は普段、毎日の仕事の中の不平、不満をあまり口には出さずに仕事をしているようですが、仕事の内容や、地域に全く関係のない私と会うときは、少し不平不満を聞いてもらいたいようです。当然「にんげん」ですから何かをやっていれば必ず愚痴が出るのは当たり前の事です。でも、その愚痴は「聞いてもらうだけでスッキリする」とか、「そんなもんじゃないで」と叱咤されて、逆に気持ちを高める事が目的である場合、こちらも真剣に聞き、また応えます。そうすると、自分にも出来ていない事でも偉そうに言ってしまうことがあります。しかし言ってしまったことですから、次の日からは「言うた事はやらんと」と十分に気を引き締めて行動するようになっています。そう言った話が出来る友人は、自分にとって非常にプラスになっていますが、そうするとそういった友人は何人いるのかと思い数えてみると、非常に限られた人数しかいないことに気づきます。
 「その人の人望の厚さは、葬式をしてみて始めて分かるもの」とか言われますが、生きているうちにそういった友人・知人が沢山いるという実感が出来るだけの「にんげん」になりたいものです。