ここまた最近になって自殺や嘱託殺人の事件が出ています。人はなぜ生きるのか、なぜ死ぬのか、とおよそ悟りでも開かねば結論の出ない疑問は、一般人の私にはそれこそ死んでも分からないのでしょう。しかし、かなり不謹慎ではありますが、このことについて少し疑問に思うことがあります。それは自分は死にたいが自ら命を絶てないので、他人に依頼する。依頼された者は依頼者の意思に従いその命を絶つ行為を行う。これをもう少し考えますと、依頼者が何らかの理由で最終的に命を絶つ行為ができないだけで、受託者が依頼者を憎んでいたり、敵対的な殺意があるわけでなく、あくまで依頼者の意思を代行すると「殺人」となるのは、日本の法律がその行為を「犯罪」としているからです。それならば、「自殺」は死にたい自分が自ら命を絶つ行為をしたことによって、自らを「殺人」した罪に問われても良いような気がします。これを別の角度で見ますと、最近よく問題となる「いじめによる自殺」などは、いじめる側が命を絶つ最終行為をしていないだけで、どれだけその人を自殺まで追い込もうが犯罪とはなりません。
当たり前に人の命を寿命でなく絶ってしまうような行為を決して行うべきでないことは当然のことです。しかしこう考えますと犯罪であるか犯罪でないかということは、ある一定の決まりに従っているにすぎないのだということに気付きます。例えば平成12年に施行された動物愛護管理法ができるまでは、極端な話どれだけ動物を虐待しようが、なぶり殺そうが罪にはなりませんでしたが、その法律ができてからは「犯罪」となります。
ですから当然に罪を犯してはいけませんし、それに加担することもいけません。ただ、やっていいことと悪いことの判断基準に犯罪になるか、ならないかだけで決めてしまっている部分がないと言い切れるでしょうか・・・。
当たり前に人の命を寿命でなく絶ってしまうような行為を決して行うべきでないことは当然のことです。しかしこう考えますと犯罪であるか犯罪でないかということは、ある一定の決まりに従っているにすぎないのだということに気付きます。例えば平成12年に施行された動物愛護管理法ができるまでは、極端な話どれだけ動物を虐待しようが、なぶり殺そうが罪にはなりませんでしたが、その法律ができてからは「犯罪」となります。
ですから当然に罪を犯してはいけませんし、それに加担することもいけません。ただ、やっていいことと悪いことの判断基準に犯罪になるか、ならないかだけで決めてしまっている部分がないと言い切れるでしょうか・・・。