カテゴリー別アーカイブ: 2007

顔トレーニング

 最近の○ンテンドー○Sなどのゲームは、今までゲーム機には縁がなかった人たちが次々と購入していき、どんどんゲーム人口が増えてきているようです。それはゲーム機自体のハードが発達したというより、遊ぶためのソフトの作り方が今までの枠からはみ出したためで、例えば今までは読書したり、雑誌を見たり、ビデオを見たりするのにはそれぞれを購入していましたが、これらはすべて1台のゲーム機で出来てしまうといった使い方ができるからなのでしょう。そんないろいろなソフトが出ている中で、美容やエステに関係するもののあり、顔を動かして若さを保とうというようなものもあります。そんな「顔トレーニング」をTVの特集でやっていて、年齢には程遠いくらいの若さを保っている人を見たときに、ふと不思議な感じを受けました。
 私が幼いころの両親などは、私が当然子供であったために、私から見れば物心つく頃から完全な大人の中年で、祖母などはその頃からおばあちゃんでした。そして少し大きくなり友人の父親などが聞く音楽は「演歌」で私もある程度歳を重ねたら演歌が聞きたくなるんだろうなと真剣に思っていました。でもよく考えてみますと、私が物心つく頃の私の両親の年齢は、20代後半から30代半ば、おばあちゃんなどは50代であったはずなのに両親は完全に中年で、おばあちゃんは本当におばあちゃんという感じでした。しかし、今の20代の親や、50代のおばあちゃんは、40歳になろうとしている私から見ると、決してそんな風には見えないのですが、今の子供から見ると、私が感じたように見えていたり、 また私も間もなく演歌を聴きたくなるのでしょうか?
 しかし実感として、日本人は昔の年齢に比べて若くなってきていると思います。それはやはり平均寿命が延びているということも関係しているのでしょうか・・・。

満員電車

 今回は社員Iの主張
 通勤に電車を使っている人、多いでしょう。私もその一人。欧米人とは違い、日本人は残念ながら、毎朝出かける前にたっぷり時間をとる習慣はありません。眠たい目をこすりながら、満員電車に揺られ職場に向かう。殆どの方がこの光景、目に浮かぶのでは?ところでこの満員電車、色んな発見があります。どちらかと言うと良い発見ではないのがちょっと辛い。例えば大きな音で音楽を聴いている人。気分がいいのは本人だけで周囲にとっては不愉快極まりない。時代でしょうか、テレビ付き携帯のテレビで音声を出しながら観ている人や平気で通話している人・・・。「ダメ」と解っているはずの事を「平然」とやる「大人」の行為に本気で悩みます。でもこれはまだ許せます。こういう人達は結局笑われている訳ですから。私がもっと許せないのが「リュックサック」。特に学生さんが多いでしょうか、背中にリュックのようなカバンを背負っている人をご存知ですか?空いている電車ならまだしも満員電車でこの「リュック」の後ろに立つともう最悪です。本人はカバンを背負って両手が空く訳ですから楽でいいでしょう。でもその後ろに立つ人は、そのリュックに押される様な格好になってのけぞることになるからとてもしんどい。しかも満員だから横にも後ろにも逃げられない。おそらくと言うよりまず間違いなく本人は気付いてない。
 この「気付かない」、「判っていない」ことが実は一番罪なのでは・・・と思います。と言いながら私自身も周囲の人から指摘されるべき点がいっぱいあるかも知れませんのであまり偉そうには言えませんが。ただ、常に意識するようには心がけています。それだけでも全然違うはずですから。何も感じない人と感じる人。
 感性はこれからも意識して養い続けていきたいですし、気付く人間で居たいと思います。

嘱託殺人

 ここまた最近になって自殺や嘱託殺人の事件が出ています。人はなぜ生きるのか、なぜ死ぬのか、とおよそ悟りでも開かねば結論の出ない疑問は、一般人の私にはそれこそ死んでも分からないのでしょう。しかし、かなり不謹慎ではありますが、このことについて少し疑問に思うことがあります。それは自分は死にたいが自ら命を絶てないので、他人に依頼する。依頼された者は依頼者の意思に従いその命を絶つ行為を行う。これをもう少し考えますと、依頼者が何らかの理由で最終的に命を絶つ行為ができないだけで、受託者が依頼者を憎んでいたり、敵対的な殺意があるわけでなく、あくまで依頼者の意思を代行すると「殺人」となるのは、日本の法律がその行為を「犯罪」としているからです。それならば、「自殺」は死にたい自分が自ら命を絶つ行為をしたことによって、自らを「殺人」した罪に問われても良いような気がします。これを別の角度で見ますと、最近よく問題となる「いじめによる自殺」などは、いじめる側が命を絶つ最終行為をしていないだけで、どれだけその人を自殺まで追い込もうが犯罪とはなりません。
 当たり前に人の命を寿命でなく絶ってしまうような行為を決して行うべきでないことは当然のことです。しかしこう考えますと犯罪であるか犯罪でないかということは、ある一定の決まりに従っているにすぎないのだということに気付きます。例えば平成12年に施行された動物愛護管理法ができるまでは、極端な話どれだけ動物を虐待しようが、なぶり殺そうが罪にはなりませんでしたが、その法律ができてからは「犯罪」となります。
 ですから当然に罪を犯してはいけませんし、それに加担することもいけません。ただ、やっていいことと悪いことの判断基準に犯罪になるか、ならないかだけで決めてしまっている部分がないと言い切れるでしょうか・・・。

事務所費問題

 少し前に浜松の公立病院の未収金の累計が9000万円を超えたというニュースがありました。どの病院でも未収金の問題には頭を悩ませているようで、TVの特番でもたまに特集が組まれたりしています。ただ、この病院の未収金については、3年程前から急激に増加しており、その理由として市民に広がるうわさが大きな要因になっているということです。そのうわさとは、「あの病院はお金を払わなくても平気」「昼より夜に行った方がいい」という公立病院だから自分が払わなくても税金で何とかなるだろうという考えと、夜間に行けば会計処理ができないのでその場で支払う必要がないなどという、全くもって自分勝手なうわさであるようです。このニュースと同じような感覚を覚えたのは、給食費の滞納問題です。全国約1000万人の小中学校の生徒の内、約1%に当たる9万9千人分の給食費が未納となっており、滞納総額はなんと22億円に上るということです。
 こういうニュースを見るたびに、本当に経済的に窮困している人たちは除いて考えて、ほんの一部の人の責任で、まともにやっている大多数の人達が迷惑を被る事になることが後を絶ちません。これらはすべて、自分だけ不正をしても何も影響が出ないだろうとか、みんなやっているから自分もやってもいいだろうという身勝手な考えからくるものです。それが全ての日本人の基本的な考えであるのだろうかと錯覚するほどに思えるのは、この問題の少し前に見たTV報道でのひとコマです。
 それは日本国民を代表する国会議員が、我々一般の国民にとってはそんな使い方や報告はあり得ないでしょうといった使い方をしていたにもかかわらず、自らの事務所費について記者に追及された時に、「10年前なら何も問題になっていなかったことが、最近では問題にされてしまうんだよなぁ」と。そういう問題でしょうか・・・。

特権階級

 最近は年金問題や、議員の金銭の不正使用問題、役所職員の横領事件など毎日のように新しい問題が出てきています。最初は「何やっとんねん!」と怒りが込み上げることが多かったのですが、ここまで次々と毎日出てきましたら、いけないことでしょうが「またか」となって怒りどころか興味自体が出なくなってきました。
 よく考えますと、一般の会社組織でこんなことが次々と出てくれば、話は全く異なります。まずマスコミに叩かれ、検察が動き、消費者からの信用をなくして、挙句に会社自体の存続が困難な状態になります。そうなりますと会社を潰すか、運がよければどこかの資本に救援してもらい、世間に再生を誓うということになってしまいますが、これが政治の世界ですと、よほどの個人的過失がない限り議員の先生方は役職を失ったり表舞台に出なくなるだけで、議員を辞めることはあまりありません。しかも、刑事事件で実刑が下され、辞職したにもかかわらず再度出馬し、再び議員になるという一般社会では到底考えられない図式が成り立ちます。
 ですから、こう書きますとかなり乱暴な言い方になってしまいますが、それほどの世界で今起こっている不祥事というのは、自分たちにとっては何とでもない事ではあるが、うるさい奴らがゴチャゴチャ言うので、仕方なく「今の“チャンス”に出せるだけ出して、全部うやむやにしたれ」と意図的に行っているようにしか私には見えなくなってきました。
 そんな事を考えますと、年金や税金などは国民の義務として当たり前に徴収されるべきものと頭の中では分かってはいても、これだけ不明瞭に使用していたり、横領されていたりすると、いい加減払うのが馬鹿らしくなってきます。しかし日本には「特権階級」が存在しないという事を信じてもう少し義務を果たしましょうか・・・。

慣れ

 少し考えてみますと、普段何も感じないことでも、結構すごいことをやっていたり、やってもらっていたりすることが多いことに気付きます。例えば新聞ですが、朝起きれば休刊日でない限り、毎日ポストに配達されています。この新聞というものは優れもので、その日のテレビの番組表から昨日あった事件、政治や経済の記事に家庭向けの記事、住んでいる地域の情報に企業やお店のチラシなど、月刊誌や週刊誌とは違ったタイムリーな情報の宝庫であるにもかかわらず、毎月3,000円程度で自宅まで毎日届けてもらえるという媒体です。この新聞の製作に一体何人の人がかかわっているのはわかりませんが、これだけの情報を毎日更新するわけですから、相当の数であることは確かです。更には折込まれるチラシにも、その数だけかかわっている方がいまして、例えば今皆さんが読んでいただいているこのチラシを作成するのにも、何人もの方の手がかかっています。
 また逆に何気なくやっているすごいこととして車の運転なんかも挙げられます。これもよく考えてみれば、今でこそ少なくなってきましたが、ほんの15年前くらいまではミッション車が必須の教習であったように、世界一速く走る人の数倍ものスピードで走る鉄の塊を、右足でアクセルを踏みながら両手でハンドルを握り、あるスピードに達したら左足でクラッチを踏み、同時に素早く左手でギヤチェンジし、右のウィンカーを出してハンドルを切るという、文章にするととても複雑な作業をほとんどの方が難なくこなしていたりします。
 そんなことでも不思議なもので、人は「慣れ」てしまうと何とも思わなくなります。しかしその「慣れ」はともすれば、本来感じなくなってはいけない感謝の気持ちや罪悪感、驚きや悲しみなども「慣れ」ることによって感じなくなってしまいますね・・・。

クレーマー

 私ごとですが若い頃の自分と最近の自分が変ってきたなと思うことが、「怒りっぽくなった」事です。恐らく若い頃であれば何とも思っていなかったことが、最近ではどうも納得がいかず許せなくなってきています。例えば役所や会社、お店などと交渉しなければいけない場面になった時に、自分の希望する結論があっても、相手方がこれしか駄目ですとか、こうしかできませんなどと返答されてしまうと、以前ならば「そう決まっているなら仕方が無い。納得いかないけど諦めるしかないか。」となっていましたが、最近ではその理由が相手方の都合のみである場合や極端に対応が悪い場合には、何故相手の都合でそこまで我慢させられるのかとか、何故そのような対応をするのか、といったような人の気持ちを全く無視した対応をするところに私は「怒りっぽく」なってきました。それは恐らくこんな私でも会社組織で長年勤め、また会社経営をするようになって、結局は殆どの事柄を組織側の都合ですすめることが分かってそう思うようになったのだと思います。
 しかし、それは常識的に考えておかしいと思うことを少しでも正す方向に持っていく程度で、「文句の言った者勝ち」のような相手方が自らの過失以上に一方的に損害が発生するような要求をする「クレーマー」とは当然一線を画しているつもりですが、自分ではそう思っていても、相手方の常識とこちらの常識の範囲が違えば同じ「クレーマー」となってしまいますので、その点は誤解されないように十分に気をつけているつもりです。
 ですから、前回はネット環境がどうだなどと書かせていただきましたが、それだけに今以上に科学が進歩すればするほど、結局最終的には何の基準も無い「常識」や「コミュニケーション」などという事が更に重要になってくるのでしょうね・・・。

ネットショッピング

 最近何かにつけて思うことが、インターネットの普及によって生活の仕方が変わってきたのが実感できます。その一つとして例えば買い物ですが、大量の買い物や高額の買い物をより安く購入する為には、今までは大型の量販店や専門店などに出向き、何件か回った後で最終的に一番条件の良い店舗で購入するといった手間が必ず必要でした。しかし、今ではインターネットの普及によって自宅で簡単に、しかも全国レベルで価格の比較ができるという数年前までは考えもつかなかったことが実現しています。ですから最近では、電化製品などを賢く購入するには、まず大型の量販店で現物を確認してお気に入りを特定し、その後自宅に帰りネットで価格調査して一番条件の良いネットショップで購入したり、ネットショップで購入しないまでも、ネットで最安値の価格を量販店に提示してそこまで値引いてもらうなどという、量販店にはとんでもなく迷惑な買い方ができたりします。
 こうなりますと、経費が最小限しかかからないネットショップの価格と、大きな敷地を確保して人件費を支払い、光熱費や本部経費などを支払っている量販店の価格が到底同じであるわけがなく、量販店は顧客に最低価格を提示されてもそこまで下げるわけにはいかないでしょうから、極端なことを考えますと、もっと今よりインターネットが普及してくれば、量販店は電化製品のショールームとして利用されるだけで、売上が全く伸びないといった問題が発生するかもしれません。
 そんな事を考えますと、これからの量販店の在り方は、量販「店」としての機能はあまり利用されないと割り切れば、メーカー各社が合同でショールームを展開し、販売はその店に設置したパソコンからネットで購入するといったことになってくるかも知れません・・・。

エコロジー

 今世間では「環境に優しい商品」や「エコロジー」など環境問題に関することに関心が寄せられています。その一環として「クールビズ」も政府の推奨のもと、企業や商業施設などでもだんだんと定着してきた感があり、ネクタイを外したり軽装になったりとクールビズ対応をしているところが多くなってきました。
 各企業などがエコロジーを行ってきている現在、無駄を省いた生産や活動を行い、その宣言として紙媒体や電波などを通して消費者へ伝え、消費者も各企業が行うことによってその意識を植え付けられ、その対策を行っていない企業は敬遠されるという、良い方向のスパイラル現象が起きてきています。そのため企業や商業施設などの入口には「マイナス●●運動実施中により、空調を約●℃上げております。その為社員は軽装で対応させて頂きます。」などと掲げているところが増えてきました。
 そういう時代に入ったなと思っていましたが、例えば昔は夏の暑い日にスーパーなどに入った瞬間に毛穴という毛穴がすべて収縮するくらいヒンヤリとしていました。しかし今はそんなにヒンヤリしていないんだろうと思って店内に入ると、表の案内とは裏腹に、昔と変わらないくらいのヒンヤリさが伝わってきます。また、企業などへ訪問した際も同様のご案内が掲げられていますが、女性でない私でも上着を着てても寒いくらいに空調を効かせているところも多くあります。
 企業イメージを良くするためだけのリップサービスやパフォーマンスを消費者はもう見抜いています。しかし消費者の本心は逆に快適性を求めているので、表面上だけ取り組んでいるように見せかけた企業が後を絶ちません。消費者は、エコロジーとはもっと個人レベルで意識改善すべきだということを自覚しなければ、この活動は全く無意味になってしまうでことでしょう・・・。

食の安全

 最近になってようやく世間では「食の安全」が声高に叫ばれるようになってきました。私はたまたま20年程前に食の安全に関する本を読んだ時に、養殖魚の奇形の多さや、輸入食材の農薬の危険性、加工食品の合成保存料の危険性などを知ってはいたのですが、現実問題としてそれらの食材を避けて購入したり、安全と思える食材を常に購入することはとてもコストがかかったりと、危険性は避けられない問題であると思っていました。また仮にそのような食材を手に入れても、食材の明記していない場所で外食したり、加工食品を合わせて摂ったりすれば元も子もなくなります。現実的に考えて今の社会で全ての食材を自給する事は困難であるといえますのである意味仕方がないと諦めるしかないのでしょう。
 一昔前までは皆が食べることに必死であった為、安全や信用というものは二の次で、「より安く」手軽に入手できる食材が優先されてきました。それが現在では、「より良い物をより安く」という供給側としては非常に難しいテーマが突きつけられるようになってきました。これが、正常な範囲での競争であれば良いことなのですが、競争が徐々にエスカレートしていき、終にはコストを下げ大量生産するための過剰な農薬散布、また生産地や原材料の偽装などの不正を行わなければ成り立たない程の異常な領域まで入ってきてしまいました。
 確かに生産者が危険性を知りながら自らは食さない農作物を出荷することや、製造業者が原材料を偽装して生産するなど許されるものではありません。しかし、そうせざるを得ない状況に追いやっている責任は、消費者の過剰な要求にも責任があると言えるでしょう。ですから常識的に考えてこの金額で購入できるわけがないと思えるものや、便利すぎるものをもっと疑問に思えば状況が良くなっていくのではないでしょうか・・・。