つい先日、友人達と話をしている中で、「自由って一体なんだろう?」と、尾崎豊の歌詞に出てきそうな台詞が話題になりました。その中で「自由の定義」って何だろうかということになり、具体的に話をしてみました。
「やりたいことをやりたいようにする」というのが、何気なく思っている「自由」であることは相違のない見解でしたが、少し考えれば、何でもかんでもやりたいことをやってしまうと、他人に迷惑を掛けてしまうことや、もっと極端に言うと犯罪になったりすることもあります。そう考えると「自由って一体なんだろう?」と逆戻りしてしまい、訳が分からなくなってきます。しかし後日、そのことについて整理して考えてみましたら、「他人に迷惑をかけない範囲」で「やりたいことをやる」ことは「自由」として成り立つことは分かりました。
そんなことを考えていましたら、過去にあったある出来事を思い出しました。それは私が小学生だった頃の図画工作の時間の出来事でした。先生は生徒全員に「それでは皆さん、描くものは何でもいいですから自由に描いてください」と画板と画用紙を配られました。そのとき私は、「自由に」と言われたので、小学生が普通描かないようなものを題材にしてやろうと必死に探していました。その時です。私の友人の描いている絵は、なんと画用紙からはみ出し、画板全体が一つの絵になっていました。それこそ「自由」に絵を描いていました。それを知ったクラスの皆は友人を笑いものにし、私も笑い飛ばしました。
しかしそれは、先生の言った「自由」が、友人以外の私たちの中では「与えられた既成概念の中での自由」であり、彼の中ではそれを取り払った「自由」であったんだなと、今になりようやく分かりました。
今まで私は、他人より自由な発想が結構できるほうだと思っていましたが、その事件を思い出した後は、今までの自分を振り返り、思った以上に「自由」な発想ができていないなと、つくづく痛感しました。
「やりたいことをやりたいようにする」というのが、何気なく思っている「自由」であることは相違のない見解でしたが、少し考えれば、何でもかんでもやりたいことをやってしまうと、他人に迷惑を掛けてしまうことや、もっと極端に言うと犯罪になったりすることもあります。そう考えると「自由って一体なんだろう?」と逆戻りしてしまい、訳が分からなくなってきます。しかし後日、そのことについて整理して考えてみましたら、「他人に迷惑をかけない範囲」で「やりたいことをやる」ことは「自由」として成り立つことは分かりました。
そんなことを考えていましたら、過去にあったある出来事を思い出しました。それは私が小学生だった頃の図画工作の時間の出来事でした。先生は生徒全員に「それでは皆さん、描くものは何でもいいですから自由に描いてください」と画板と画用紙を配られました。そのとき私は、「自由に」と言われたので、小学生が普通描かないようなものを題材にしてやろうと必死に探していました。その時です。私の友人の描いている絵は、なんと画用紙からはみ出し、画板全体が一つの絵になっていました。それこそ「自由」に絵を描いていました。それを知ったクラスの皆は友人を笑いものにし、私も笑い飛ばしました。
しかしそれは、先生の言った「自由」が、友人以外の私たちの中では「与えられた既成概念の中での自由」であり、彼の中ではそれを取り払った「自由」であったんだなと、今になりようやく分かりました。
今まで私は、他人より自由な発想が結構できるほうだと思っていましたが、その事件を思い出した後は、今までの自分を振り返り、思った以上に「自由」な発想ができていないなと、つくづく痛感しました。