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郵便制度悪用事件

 少し前に大阪地検特捜部の主任検事が、事件の証拠書類の改竄をしたということで事件となり、社会的関心が寄せられていました。確かに事件当事者にとって、その事件が有罪なのか無罪なのか、いやそれ以前に起訴すべき事件なのか、不起訴なのかという、まさに最後の関門ですから、そんなところが証拠の改竄を行ったら、いったい国民は何を信用すれば良いのか分らなくなりますし、私も当然にそう思います。ただ、この事件を知った時の私個人としての率直な感想は、「まあ、そういうこともあるやろう」という半ば諦めのような気持ちでした。
 これは本当に私見ですが、絶対的な権力や人並み外れた能力で仕事をしている人は、当初どれだけ高い志があっても、周りの待遇や評価が高いほど、その立場の失墜や、評価の下降を強く避ける為に不正を働く人も中には存在すると思っています。しかしこんな事件は根絶すべきなのは当然ですが、人間社会であるがゆえに、決して根絶することのできない事件かもしれません。
 しかし、個人的にはこの事件よりも、その元になった村木局長の郵便不正事件の冤罪に関心があります。これも完全な私見ですが、今までの女性の社会犯罪の多くは、男性が関係した金銭の搾取だったり、人の殺傷だったりする事件が多く、男性と違い女性で社会的地位などを得た人が、自身の為に賄賂や不正をするのを聞いたことが無かったからです。男性は後先考えず今現在の快楽や利益を求めて不正を行い、自身の立場を追われる羽目に陥りがちですが、女性は自分が望んで得た立場というのを非常に大事にする傾向があるので、目前の利益や快楽よりも、それを選択する事により失脚するデメリットを考えて行動するように思えるからです。
 そう考えますと今の日本のような未だ男性社会を女性社会に変えていけば、不正が少なくなる?のではないでしょうか・・・。

お金持ちの中国人

 皆さんも絶対に実感として感じておられると思いますが、最近急激にどこの観光地やどこのホテルへ行っても、必ずと言っていいほど中国の方に出会いますし、日本語に併記してハングルと中国語の案内があったりします。今までは、京都や東京などで海外の方、特に欧米人を見ることがあっても、なかなか地方の観光地などでアジアの方と出会うことが無かったのですが、これは急激な社会の変化の現れです。理由として中国人の日本への渡航の制限が緩和された事だと言われていますが、中国の貨幣価値は以前に比べて上がったとはいえ、日本の物価とは比較にならない水準です。例えば、エコノミストの間で各国の物価を比較する基準としてよく使われる「ビックマック指数」で比較しますと、2010年の中国の指数が1.83ドルで日本は3.50ドルです。これが正確な基準とは言い切れませんが、一つの物差しとして用いるとすれば、中国の物価は日本の半分ということになります。それを踏まえれば、いくら渡航基準が緩和されたといっても、物価が倍もする国へ簡単には行けるものではありません。ましてや緩和された対象が年収25万元(約330万円)から6万元(約80万円)に引き下げられたみたいですが、仮に日本で暮らす年収80万円の人が、家族全員で「物価の倍のする海外への買い物旅行」へ行くことができる家族が果たしていったいどれくらいいるでしょうか?そう考えますと、実際には年収を基準に考える以上に、中国では潤沢に資産がある人が多いと言えると思います。
 これだけに焦点を当てますと中国が共産圏ということを忘れてしまいますが、その反面、大多数の都市部以外に生まれ育った人達などは、例え夢を持って大都市に移り住み、どれだけ頑張ったとしても市民権すら得られない、また成功を掴み取るチャンスすら与えられない、そんな制度もあるようです・・・。

裁判員裁判

 裁判員制度が2009年5月に施行されてから1年が経過した2010年5月までに、既に約600件の裁判員裁判が実施されたようです。その、約600件の裁判中、有罪が約580件と圧倒的多数で無罪が0件、その他20件という結果でした。その中でもし自分が裁判員の候補に挙がった場合、例えば重要なプロジェクト中や、時期的にどうしても参加できない場合や、家族の介護、自らの疾病などによって参加できない場合、皆どうしているのか調べましたら、なんと裁判員の候補に挙がった約半数の方が、何らかの事由で辞退されていました。施行前の説明では相当の理由が無い限り辞退できないと言っていたので、ある意味裁判所の柔軟な対応に驚きでした。
 そんな中先日、裁判員裁判で初めて有名人の裁判が行われました。その「有名人」という一種の特殊な環境にいる人の裁判というのは、特に注意しなければいけないとマスコミは叫んでいます。それは裁判員がその有名人のファンであれば、正確な判断ができないというのです。確かに熱狂的なファンであれば正確な判断からはかけ離れるでしょうから、周りから見てそう判断される人は除外すべきだと思います。しかしそのラインをどこで引くのかが難しいところで、例えファンだったとしても殆どの方は、そんなに熱狂的なファンではないので、周辺調査しても白か黒かという判断はできないでしょうし、天涯孤独な方ならば周辺調査すら無駄なことです。よく考えてみれば一般人でも被告が非常に良い印象を裁判員に与える人は、非常に悪い印象を与える人より有利に働くように思えますので、極端なケース以外は結局あまり気にすることもないのかもしれません。
 そう考えますと、有名人は普段から好感度の人は別として、印象の悪い人は今から好感度を上げないと不利です、って別に犯罪を犯さなければいいんですけどね・・・。

幼児置き去り事件

 東京都足立区の民家で、生存していれば111歳の男性のミイラ化した遺体が発見された後、厚労省が各自治体に高齢者の所在確認の指示を出してからというもの、連日白骨化した遺体が発見されたニュースが飛び込んできます。ごく普通の生活を送っていると思っている私には、ちゃんとした死後のお見送りをしないどころかその放置行為自体が、信仰がどうであろうと、年金の受給がどうなろうと、おおよそ人間の感覚からはかけ離れた神経としか思えません。
 よく考えてみてください。人体が腐敗して白骨化するということは、冷蔵庫で魚や肉が腐敗臭を放つのとは訳が違い、いくら痩せ細っていたとしても、30キログラム以上の肉や骨や内臓の塊が腐敗臭を放つわけですから、想像を絶するほどの悪臭が放たれるはずです。その「腐敗体」と化した身内と共に一つ屋根の下で暮らすことは、どれだけその亡くなった人を愛していたとしてもまず私には無理です。
 百歩譲って、前述の方々は寿命や病気また、ご自身の意思でお亡くなりになられた後のお見送りを身内が行わないという、いわば「消極的」な行為と考えれば「極悪非道」な行為とは言えませんが、同じ消極的な行為でも大阪市の西区で発生した幼児置き去り殺人に関しては、幼児に食事も与えず部屋から出ないように扉に目張りして1か月も放置するという、それこそ人間として「極悪非道」な行為は記事を読むたびに、その女に対する怒りと幼児がどれだけ辛かったかを思う悲痛な悲しみに襲われます。例えは悪いですが、犬以上に自らの生命維持に関して保護者である母親にしか頼ることのできない幼児に何もせず放置する行為というのは、個人的には殺人以上の罪の重さを感じられずにはいられません。
 しかし身勝手を通り越したこんな事件が続く現代には、その予備軍が相当数いるような気がしてなりません・・・。

熱中症

 最近の猛暑で全国的に熱中症になる方が増えています。さすがに、この暑さですと外に出て何もせず、ただじっとしているだけでも、滝のような汗が吹いてきますので、運動などしている場合は、よほど気をつけないと熱中症になってしまうのも頷けます。余談ですが、私が学生の頃は熱中症という言い方をしなくて熱射病と言っていたので、何が違うのかネットで調べてみますと、熱中症という大きなカテゴリーの中に、症状によって熱失神、熱痙攣、熱疲労、熱射病があるようで、日射病などともよく言いましたが、これは熱射病の言い方の違いで、同じ症状らしいです。そんな熱中症を防ぐためには、よく言われることですが、水分と塩分をよく摂る事が重要のようで、運動をする場合以外でも、外出する際にはスポーツドリンクなどを持参していくよういろんなところで呼びかけられています。と、ここまで書きますと、私達の世代の方は絶対といっていいほど「自分たちの頃は、運動中に絶対に水を飲んではいけなかった。」と口を揃えて言われます。
 しかしその理由を聞きますと、ある人は「バテるから」とかまたある人は「根性つけるために」とか「ただのシゴキで」とバラバラです。確かに私もこんな酷暑の中で、ピッチャー組と称して、他の部員とは違う運動メニューをこなす際に、例えば校外への10km程度のランニングに出かける際には冬場に防寒のために着込むウィンドブレーカーをわざわざ着込んで走りに行き、帰ってきても水一滴も飲まず、アンダーシャツだけ着替えて投球練習に入ったものでした。
 今考えれば、相当無茶なことをしていたのですが、そのことを当時の監督や学校、保護者から全く何も指摘が無かったのは、「時代が違うから」の一言で片づけられるものなのでしょうか。それとも今の人達が過敏になりすぎているのでしょうか・・・。

佐野元春と桜井和寿

 先日、車のTVで意識せずに流れていた番組に何気なく眼をやると、私が中学・高校時代にハマっていたシンガーソングライターの佐野元春さんが出演していました。その番組は以前にも一度たまたま見ていた番組で、どうやらそれは佐野元春さんがホスト役で、大学の教室のようなところにいろいろなミュージシャンを招いて対談し、学生?にもゲストに質問させるという内容のものでした。今回のゲストはミスターチルドレンの桜井和寿さんでしたので、お互いがソングライターとしての話をされていましたが、桜井さんは佐野さんが「こういうところは、こうでしょ?」ということに対して、結構そうでもないようなことを言っていて、佐野さんが進行をしにくくなってる様子が面白く映りました。ただ、その中で唯一佐野さんと桜井さんの意見が合ったのが「名もなき詩」の歌詞で「愛はきっと奪うでも 与えるでもなくて 気が付けばそこにあるもの」を佐野さんが「このフレーズができた時はすごく嬉しかったでしょ」と問いかけた時桜井さんが「すごく嬉しかったです」と答えたことでした。その後桜井さんは、「愛は与えるもの」といった世間で「当たり前」や「こうだ」と思われていることは、実はそんな面ばかりでなく、違った捉え方があることを表現できるフレーズを生み出したときに最高の喜びを感じるというような話をされていて、思わず私も納得していたのでした。
 その日の夜にそんな番組を見たことも当然に忘れて、お酒を嗜んで話をしている中で、まともな人とまともでない人の違いの話になり、周りから見てまともでないと思われている人も、周りから見てまともと思われている人も、皆自分はまともな人であると思っているのは何故か?という疑問が湧いてきました。話をしている中で何となく結論めいたのが、誰もが皆、普通の感覚を持っている部分があり、誰もが皆普通でない感覚を持っている部分がある。その中で、周りから見れば、たまたま普通でない部分が強調されていたり、その部分しか見えていない場合は、その人が「まともでない人」となるけれども、自分自身が自分を判断するときは、何故かまともでない部分のみを削除して、まともな部分だけを自分の感覚として捉えているからではないか、ということに達しました。そう考えると、少しずれているなと思えるような人を含めて殆どの人が「私はまともな感覚を持っている」と考えていることが納得できそうです。 
 結局のところ、何の定義を持って「まとも」なのかということ自体、曖昧ではありますが、「当たり前」に自分自身の事を「まともである」と思っていること自体を考え直してみたほうがいいかも知れませんね・・・・。

W杯日本代表

 私が今このコラムを書いているのは、日本がデンマークに勝利した日の午後ですが、このコラムが出る今日は、すでに決勝トーナメント1回戦のパラグアイとの勝負の結果も出ていて、日本がパラグアイに勝利していれば、本日の深夜27:30から準々決勝がキックオフされます。よく考えてみますと日本はFIFAランクが45位と、オランダの4位、カメルーンの19位、デンマークの35位と、予選Eグループの中で一番ランクの低いチームでしたが、予選を2位で通過するという快挙を成し遂げました。そう考えますと、予選通過しただけでも十分な成果だと思うのですが、人間というのは欲深いもので、こうなればどこまでも上位に勝ち進むことを期待してしまいますし、今の日本代表にはその勢いがあります。
 「勢い」というものは、決して目に見えるものではなく、あくまで感覚的に感じるものだと思うのですが、私も中・高と野球をやっていまして、その目に見えない「勢い」というものが勝負の結果を大きく左右するということを、どれだけ直接肌で感じことでしょう。大会前に無名であったチームでも、勢いがあるチームというのはその戦いぶりが見ていて気持ちのいいものであり、またどういう訳かチャンスに強く、「点を取るだろうな」と思うところで必ず取ります。また仮に敗戦したとしても見る側もプレーする側もと気持ちのいい敗戦となります。
 そうしますと今の日本代表の「勢い」は、既にパラグアイに勝利していて、今日深夜の準々決勝でスペインや、ポルトガルなどの本当の世界のトップと互角の勝負をするかもしれません。(既にこの希望的観測が外れて敗戦していたらすいません)
 正直、個人的には特に興味のあるプロ野球球団が無い私には阪神の優勝と同じで、サッカーに興味が無くても、周りが騒いでいると結構楽しめるものなのですね・・・。

引責辞任

 唐突ですが、例えば皆さんが責任のある立場で活動している場合に、かなりリスクのある決断をしなければいけない時、又は自らの不注意によって失敗したり、不正の発覚により問責された時、どのような行動をする事によって責任を取ろうと考えるでしょうか?恐らく「即辞任」や「即辞職」によって責任を取ろうとする方が大半で、また周りの方もそれが当然であるという認識になると思います。世間一般ではそういった責任を取ることの最大の方法は「辞任」であり、「辞職」であるという認識があるように思います。しかし私は、いつもこの責任問題に発展した終結が「辞任」や「辞職」となることにいつも違和感を覚えます。確かに責任を取ってその「責任のある地位や職」で無くなる事は大きな事ではあるかとは思いますが、逆に言えば、責任のある地位や職で無くなる事によってその「責任から逃れる」事にもなる訳です。極端な言い方をすれば、その責任を別の人が引き継いで、大変な労力と時間をかけて問題の解決や信用の回復に努めているその時に、当の本人はその渦中の外にいてその責務から開放されているわけです。
 ですから私は、こういった責任問題が発生した時にいつも思うのですが、その本人が問題の解決などをある程度行い、事態がある程度収束した後に「辞任」なり「辞職」し、個人的に補償などをする事によってはじめて本当に責任を取った事になるのではないのかと思っています。何故ならある一部の特別な利益のある地位や職で無い限り、大半の責任のある地位や職は、世間の方が思うほどその地位や職から恩恵を被ることもなく、それに比較してリスクの負担や労力や時間の負担などのデメリットの方が大きい場合が多いからです。
 これからは、本当の意味で責任を取るような行動を世間が求めてほしいと密かに思ったりしています・・・。

米や麦

 このコラムを書いている今時点で、日経平均株価が一万円を下回っています。米ドル為替も91円台とかなりの円高の状態になっています。このような状態では輸出産業を含めた日本の経済全体がetc・・・などと、キャスターや経済評論家などが難しい話を毎日のようにされていますが、我々一般庶民からみますと、こんな経済の事は、確実に私たちの生活に影響を与えているのは何となく分かるような気がするのですが、海外旅行やブランド品を購入する時以外は自分に直接関係が無いように思えるので、実感としてはあまり感じられないというのが、殆ど方の本音では無いでしょうか。ましてや円高になればなるほど、輸出企業を含めた大企業がとてつもない損害が出て、日本経済に多大な影響を与えるんだろうという位は何となく分かっていますが、庶民の立場で言えば、「やった-。海外旅行に行きやすくなる」という思いのほうが大きいような気がします。こういう経済の事に強く関心を示す人というのは、金融関係や政治関係のお仕事をされている方や、お金持ちだと思いますが、そんなお金に関してあまり縁の無い私たちが、先日会社でこんな話をしていました。
 お金というのは、その紙切れを皆が価値があると思っているから貴重なだけで、それを皆が「価値無し」と思ってしまったら、それこそ紙クズになる。だとすると、そのお金を価値のある「金」に替えたら安全か?と言えばそもそも「金」に価値があるとしているだけで、「金」自体で何が出来る訳ではないので、それこそ皆が価値無しと判断されれば、ただの鉄クズでしかない。
 するとお金を何に代えれば一番いいのか?となると価値が下がろうが上がろうが関係なく、そのもの自体に意味があるもの、例えば「米」や「麦」という保存ができて私たちの「生存」に必要なもの、なのではないのだろうかと・・・。

個人情報保護法

 個人情報保護法、道路交通法、貸金業法、消費者保護法、建築基準法・・・etc、私たちの周りには本当に色々な法律があります。その法律がどのくらいの数があるのかインターネットで調べてみますと、何と約500もの法律があることがわかりました。その一つ一つを見ていますと、私たちの生活にかかわりが深いと思われる法律の中にも、全く見慣れない法律があったりします。例えば、「立木ニ関スル法律」や「遺言の方式の準拠法に関する法律」、「偽造カード等及び盗難カード等を用いて行われる不正な機械式預貯金払い戻し等からの預貯金者の保護に関する法律」、「仲裁法」など、そんなことまで法律としてあるのか、という感じです。
 そもそも法律というものの本来の目的が、どこにあるのか私は専門家で無いのでわかりませんが、私が思う法律の効果は、基本的に困っている人を助けるものであったり、秩序を作るためのものだと思っているのですが、現実問題として法律があるがゆえに、真面目に法律を守ろうとする人や企業が多大なる負担や犠牲を払ったり、昔の基準をそのままにしているがゆえに、現在の実情とはかけ離れている規制を強いていたりするものが数多くあるように思えます。ほんの一例ですが、個人情報保護法などは、その法律を完全無視した業者のメールや郵送物など、私たちが一番規制してほしいものに対しては何の効果もなかったり、道路交通法では道路の制限速度などは、昭和の35年の設定以来、一度もその最高速度が更新されていなかったりと、自動車の性能の向上を完全に無視した法律になっていたりします。
 確かに、規制をしたい対象や人に対して効果的にその規制をかけるということは、素人目から見ても相当困難な事柄だろうと解ります。しかし、だからと言ってそのままにするのだけは、やめて欲しいですよね・・・。