カテゴリー別アーカイブ: 2011

植物の生命力

 会社の前の歩道には、イチョウの木などの植樹が沿道にされていまして、秋になりますと銀杏などが生り、季節を楽しませてくれています。ただ、イチョウの落ち葉の量は半端な量でなく、その時期になりますと毎日大きなゴミ袋一杯に落ち葉拾いを行う羽目になります。また、高木の為成長していくと電線などに絡み危険な為か、何年かに一度、枝の大規模な伐採が行政によって行われているようです。会社の前の木はこの周辺で一番大ぶりのイチョウの木ですので、その木がありますと、周辺でも一番落ちる落ち葉の掃除や、また店の前面が塞がれることもあり、正直申し上げまして、もうちょっと何とかして欲しいという気持ちがありました。それが昨年暮れに私が知る限り初めて業者の方が枝の伐採を初められた時には、「やっとか」と安堵したものでした。しかし、伐採が終わりその木を見ると、かなり大胆に「丸裸」にされていまして、見るに耐えないほどでした。人というのは勝手なもので、つい先程まで「やっと切ってもらえる」と喜んでいたのが、切り過ぎた状態を見て「可哀相」などと思うもので、こんなことを考えますと、行政の方は大変だよなぁとも感じたりします。
 その木がこの夏、丸裸の幹から新枝をぐんぐん伸ばし、なんと周囲の伐採していない木に負けないほどの葉をつけているではありませんか。しかも、その葉の大きさは伐採していない木の葉に比べ小さいものでも3倍、大きいものですと10倍くらいで、周囲よりも濃い緑の葉を所狭しと、ギュウギュウに広げています。太陽に当たる葉が少ない分、1枚あたりの面積を広げたのでしょう。何という生命力でしょうか。その生命力を感じた時私は、込み上げる感情とともに熱い血が全身を駆け巡り、暫く感動したままそのイチョウの木を見つめていました。
 それは今年も相当の落ち葉の掃除を覚悟しながら・・・。

桔梗高野球部OB会

 先日、今年も名張桔梗丘高校野球部のOB会に出席させて頂きました。総会 が終わり、懇親会(桔梗が丘 蔵楽にて。オーナーは勿論OB)で話をしていますと、OBの各々がいろんな方面で大活躍しています。同じ時期に汗を流していなくても、生活や仕事に全く自分が係わっていなくても、同じ高校の同じクラブで汗を流したことを知った時、つい先ほどまで全くの他人だった人でも、活躍している事に頼もしくまた、嬉しく感じたりしますし、何故かしら心から信頼できる人物に思えてきたりします。そんな中、今年は長年民間企業にお勤めされながら監督をされていた方の退任後、教師の方が監督として就任され、また別の民間企業にお勤めされながらコーチとして指導されている方が、一時期九州に転勤された時も毎週のように名張へ帰り、後輩の指導にご尽力いただいているのをお聞きしました。以前の監督同様、コーチにもご家族がおられますし、ましてや民間企業にお勤めされているので、本当にこの方々の努力や情熱に感服する事はさることながら、彼らの周囲の方々のご理解やご協力は、私の想像の範疇を超えた神の域にさえ感じます。
 OB会の数日後、高校野球の開会式に参加した部員の保護者が運転するマイクロバスがトラックに衝突し、助手席に乗っていた監督が死亡するという事故が報道されていました。この事故は、誰もが決して悪い事をしたわけでなく、逆に皆の為に良かれと思い行動していた事が全くの裏目に出るという、当事者の事を考えれば考えるほど心痛める事故です。こんな不幸な出来事はどんな事であれ、いろんな場面で今一生懸命にご尽力頂いている全ての方々に、決して降りかからないようお祈りすると共に、人の善意が取り返しのつかない事態とならないような仕組みつくりを確立する必要があることを教えていただいた大変不幸な事故でした・・・。

適正価格

 つい最近、ユニクロで特価で販売されていた服を買いに行きました。その製品はしっかりとした製品であるにも拘らず、1本1290円と格安で販売されていました。更にその以前に志摩市の衣料品店で購入したハーフパンツは、全く無名のメーカーでしたが、生地や縫製がしっかりとしていて、裏地も柄物の生地が特別に縫い付けてあるにもかかわらず、690円という破格の値札がついていましたので、つい購入してしまいました。
 以前であれば特価や極端に安いものは「安かろう、悪かろう」という図式が成り立つような製品が殆どでしたが、消費者も賢くなり「より安く、より良いもの」を求めるようになりました。そうなりますと供給側は「今までの仕組み」の中で無駄を省き、より安い製品を供給し始めます。しかし消費者はいつしかその基準が当然となり、もっと安いものを求めるようになります。すると供給側は今までの仕組では自分達の収益が確保できないので「新たな仕組み」を構築してコストを省き、消費者のニーズに応えようとします。ここ数年前までは、先述のような正常な社会競争を経て実質的に物価が下がってきました。
 しかし、最近は収益を確保する為に、絶対に欠かしてはならない飲食物でさえ「安全性」を確保する為のプロセスを削り収益を確保してきたために、食中毒事件などが多発しています。安全性でいえば、もしかすると格安航空会社では整備不良の為に将来的に大事故が発生するかもしれません。それらが発生した時、それは供給側が安全性を確保するというプロセスや使命感を欠いたからからだと一方的に非難していいのでしょうか?私は何もかもに過剰に価格の低下を求める消費者にもその責任は十分にあると思います。
 安全性が必要なものに「適正価格」を支出する事は、自己防衛の為にも絶対的に必要な認識だと思います・・・。

君が代条例成立

 先日、新聞を見ていて、大阪府が公立学校の教職員に対して、君が代を斉唱する際に起立を義務つける事や、府立の施設で日の丸掲揚を義務つける条例が可決された、という記事に目が留まりました。そもそも私には、君が代が国歌であるのかないのかや、国旗掲揚がどんな社会的な意味を持つのかなどと同じように、そのものの歴史的背景や、その行為自体が持つ意味など、全くと言っていいほど無知な私にとっては、入学式や卒業式などの行事があるときに君が代を斉唱することや、校庭で国旗を掲揚する際に国旗に向かって直立不動で注視することを「当然の事」として、何の疑いもなく、また何の反抗心もなく行っていました。
 このことを逆に考えれば、小さい頃から「これはこうして当たり前」として教育されれば、それが他の人から見て100%間違っている事であっても、それがおかしいと指摘されるまでは、当人には当然の事としてインプットされてしまうものという事です。例えば物凄く小さい私事で挙げてみますと、大薮家では揚げ物には種類は関係なく全てマヨネーズとトンカツソースをかけるという文化がありました。それが外食時、天ぷらに得体の知れない汁が付いて来た時に私は、隣の人がその汁に天ぷらを着けているのを見て非常に驚いたものでした。
 話は戻しますが、君が代斉唱時の起立が正しいのか、正しくないのかは私には分りません。分りませんが、これだけは言える事があります。それは君が代斉唱時に起立しない先生がいる学校は、それまで何も考えず何も疑わず「校則は守るもの」と思い校則を守っていた生徒でも、その先生の姿を見れば、「納得しないことは守らなくて良いんだ」と必ず思うようになります。そう思うようになった生徒に、ピアスは駄目、髪の毛が茶色いと指導したとして、誰がその指導に従うのでしょうか・・・・・。

KKドラフト会議

 前回書かせていただいたドミニカ共和国の野球の原点を取材した番組の中で桑田真澄さんは、プロ野球選手になれたのは、技術的には父のスパルタ教育のおかげではあるが、精神的に支えてくれた母がいなければ今の自分は無かったと言っていました。そんな桑田さんは、後で問題になった甲子園に出場する投手の多くが無理な連投をしている(高校生で選手生命が終わるほどの身体の酷使)中で、自分は何としてもプロになる為に、高校生で潰れるわけにいかない。ここで潰れたらお母さんに家を買ってあげることが出来ないので、練習量を減らす直談判を監督にしたらしいのです。普通の高校生であれば、彼のように1年生の春の大会から3年生の夏の大会まで、出場可能な甲子園大会へ全て出場した場合、それ自体で満足したり、ここで完全燃焼(体を潰す)してもおかしくないところを彼は、プロになる=母に家を買う という一心で主張をし、プロに入って家を買いました。
 また、桑田さんはメジャーリーグ引退後も、毎日欠かさずトレーニングをしていました。理由はKKドラフト事件でプロ入団以来確執が続いている清原和博さんが、体を故障させながらも未だ現役を続けているので、そのバッティングピッチャーをすることが今の夢と描いたからです。しかし、彼が望んでくれるかどうかは分からない。でももしその機会が与えられたなら、彼に失礼のないよう現役に近い球威で望みたいからとの思いでいた2008年7月28日、それはスカイマークスタジアムで実現します。
 これらで私は確信しました。人は心から強く思えば、またその願いが強ければ強いほど、人はその願いに向けて実現する方向に動いていくものだと。夢が実現するかしないかは、その思いが強いか弱いか、継続するか継続しないかだけで、全ての願いは、決して諦めない限り必ず叶うものであるということを・・・。

ドミニカ共和国

 先日NHKで元メジャーリーガーの桑田真澄さんが、ドミニカ共和国の野球の原点を取材した番組が放映されていました。この国の野球熱は、今やメジャーリーグへ150人以上輩出するほどに盛んです。しかし、野球をするための恵まれた環境などは全く存在せず、小さい子供たちはグローブやバットは勿論のこと、普通に履く靴すら持っておらず、その日暮らすのがやっとの中で、将来のメジャーリーガーを夢見て練習をしていました。その中で桑田さんが、子供たち何人かに将来の夢を聞いていた時、当然私は「メジャーリーガー」と答えると思っていました。ところが、答える言葉は決まって「親に家を建てること。そして社会や困っている人を支援すること。」でした。自分たちの生活もままならないこの子供たちが、自分や家族だけが良い暮らしを夢見て大リーガーを目指すのでなく、社会貢献することを目的に、それを実現させる為の「手段」として大リーガーを目指す事に、物凄い感動と共感を覚えました。
 私の偏見かもしれませんが、経済的や家庭環境的に恵まれいる環境の人よりも、恵まれていない環境の人の方が、社会貢献心や家族愛の強い人が多いように思えます。それは明日の食事の心配より世間体に関心が強い今の日本では、極端に貧困や裕福であったり、また家庭環境が特に悪くない限り、そういった思いにならないのは当然かも知れません。私は決して住む家や、家庭環境が悪かった訳ではないですが、兄弟が5人いて経済的にゆとりがなかったので小学校の頃から新聞配達などをし、出来るだけ自立しようと頑張りました。
 そんな私の会社を始める時の目標は、誤解を恐れず申し上げますが「物凄いお金持ちになる」事。その「お金持ち」はあくまで目標に過ぎず、真の目的は「自分の思うように社会貢献や人を支援する」事、それが私の夢です・・・。

ワンピース

 最近巷では、「ワンピース」という少年漫画が流行っていて、それは子供のみならず大人でさえもそのファンが多く存在します。社内でも、私ともう一人以外は皆その漫画を読んでいて、話題が出るごとに読むことを勧められていましたが、頑なに拒んでいました。というのも、私はもともと根がとても単純な性格の為、皆が良いというものは、私も必ず「ハマる」ことが自分で分かっていましたので、現時点で61巻もある漫画を読み通す体力と、そして数カ月に1刊が発行される新刊を待つという根気を考えるだけで気が遠くなるような事です。
 そんなある日、TVで「ワンピースSTRONG WORLD」という映画が放映されていましたので、恐る恐る見ることにしました。見終わってみると元々何のストーリーも背景も分らなかった私には、ゴムの体が伸びたり、大きくなってパンチしたりする只の少年漫画にしか見えなく「この漫画の何がいいの???」と次の日に皆に言うほどのものでした。そんなある日、「ワンピース エピソードオブチョッパー」という映画が放映されたので、今回は気軽に見ました。しかし今回は何と、見終わった時には床にティッシュペーパーが山積みになるほどの感動で泣きまくり、次の日には大人買いの全巻購入。その全巻は数日間で読み切りました。
 一気に読んだので内容や登場人物などあまり詳細までは覚えていないのですが、強烈な印象として、主人公ルフィーは「仲間を大切にする」という己の信念のもとに行動します。それを忠実に実行するが故に極端に自己中心的な行動を取りますが、それでも周囲を全く気にせずにとことん貫きます。その結果、皆が望んでいる結果を生み出し、そして皆がその主人公に惹かれていきます。
 これほど単純で純粋であるがゆえに、周りを気にする私には非常に深く考えさせられる「少年漫画」です・・・。

福島原発事故

 東日本大震災の爪痕が未だ癒えないまま、既に1か月が過ぎました。そんな中、東日本の電力不足に限らず日本全体でも震災の影響によって資材や部品の調達、製造や発送に至るまで、被災地以外でも経済活動や社会生活に大きく影響しています。やはりこれほど甚大な被害をもたらした地震ですので、日本全体に与える影響が大きいことは当然と言えば当然です。日本全体に影響といえば、福島原発の事故も挙げられますが、この事故の一報を聞いた時私は、以前このコラムで紹介した竹下貴之さんのことを思い出しました。
 彼は旧科学技術庁のキャリアとして原子力を推進する立場として働いている頃、私は彼に「電気が足りなくなるから電気をどんどん作るという発想ではなく、電気をあまり使わないような製品開発の研究に国費を費やすべき」という会話を何度か酒を飲みながら交わした後、何と旧科学技術庁を退職し、東京大学や立命館大学などでエネルギー問題についての研究を始めました。そして現在再び東京大学へ戻り、地球持続戦略研究イニシアティブ(TIGS)というところで特任講師という立場で「サスティナビリティ学」というものを教えています。その学問は無学の私には良くわかりませんが、地球を存続させるための総合的な問題の解決や研究をしているらしく、HPの説明を引用させていただきますと、「国際社会が抱える課題を解決し、地球社会を持続可能なものへと導くビジョンを構築するためにその基礎となる新しい超科学的な学術」らしいです。元々彼は、原子力を推進する立場で入庁したものの、その危険性を20年近く前から感じたため、原子力を用いないエネルギーの研究を選択し、現在ではその発展的な研究を行っています。
 私は、心から願います。彼らの研究がこれから生かされていくような社会になっていくことを・・・。

いま、わたしたちができること

 前回も書かせていただきましたが、東日本大震災は、亡くなられた方はもとより、被災された方々には心からお悔やみと、お見舞いを申し上げます。
 前回は、マスコミの対応をいつものように非難しましたが、人のことを非難することは簡単なことで、「偉そうなこと言うが、じゃあ、お前はなんかやっているのか」と言われますと、そんな大したことをしていないことに気づきます。確かに以前から予定していました宮崎での市民マラソンや前日のチャリティーコンサートでは、急遽東日本大震災の支援活動をすることになり、そのスタッフの一員として、また参加者として活動したり、がん患者さんがマラソンをすることによって元気になってもらおうという集まりの「チームメッセンジャー」では、物資を積んで現地へ向かう仲間の支援活動など行ったりはしていますが、自分自身が役に立っているのかは疑問です。ただ、何もしないより、それが自分にとって「無理のない範囲」で出来ることから始めることが重要であり、我武者羅に無理をして支援活動をすることが重要でない、という事は頭で分ってはいても、自分の全てでボランティア活動をされている人と比較しますと、何となく「情けないよなぁ」と思ってしまいます。
 そんな中、震災からほんの数日後、私が宮崎のチャリティーで不在の中、社員全員が自主的に会議を開きました。題材は「いま、わたしたちができること」。誰からも指示がない中で、自主的にこの日本の窮地にささやかながらも自分たちに何が出来るのか、ということを深夜まで会議してくれました。その結論が出たことに、私は何も言わずそれに従うつもりでした。
 結果は、こんな日本の窮地に自分たちだけ社員旅行に行っている場合ではないとの判断で、会社ではなく、個人が積み立てた旅行積立を全額寄付するというものでした・・・。

東北地方太平洋沖地震

 東北地方で起きた地震は、国内観測史上最大級の大震災で、その爪痕を報道で見る限り、その被害の甚大さに、災害にあわれた方々の事を考えますと心が痛みます。そんな状況を災害直後から各TV局は、全力をかけて報道しています。各テレビ局がこれほどまで全力で一日中災害報道をしているのは、あの阪神大震災以上のようにも思えます。被災した方にとって今は、家屋の焼失や今後の不安よりも、家族や親類の安否情報、また現在の被災の状況や、支援、援助の状況などのほうが重要ですのでこれは非常に良いことだと思います。ただそんな中、また、いつものように報道批判になってしまうような場面が多々あり、私としては残念でなりません。
 初期の頃、病院やビルの屋上に「SOS」などの文字が大きく書かれているとこがありました。それを見たアナウンサーが「災害本部や関係者の方、この映像を見ておられたら、宜しくお願いします」的な発言をしていました。また、初期は被害の状況を把握する為に被災状況の報道は必要ですが、状況がある程度はっきりした時点で、そんな映像やご家族とはぐれた方の悲しいインタビューを「何度も流す」ことに何の意味があるのでしょう。確かに報道機関が救援に回ると本来報道すべき事を報道できなくなります。ですが、「SOS」を発見したなら、事前に災害本部との連携をとっておけば、その情報を逐一流すだけでもかなりの貢献ができるはずです。また支援したい人が支援するための連絡先や、可能であれば現地へ出向く方法、また安否情報の確認場所など、重要な報道がもっと沢山あります。要するにこの報道は、私のように被災していない人に「こんな凄い被害です」ということを伝えてるだけで、残念ながら被災した人や救援活動に役立つ事を優先に考えて報道していません。
 報道の社会的責任をもっと感じてほしいものです・・・。