カテゴリー別アーカイブ: 2004

年金計算

 前回のコラムで書かせていただいた年金の件ですが、国会の決議までは、あまり世間で注目されていませんでしたが、最近TVなどを見ていますと、決議した後にようやく年金の特番をやるようになってきました。私達の将来のことだけに、本当は国会の決議の前にもっと世間で注目されるべきところではありますが、私を含めて日本の人々は、事が起ってからしか「これは、えらいこっちゃ!」というふうに思わない傾向があるようです。
 そんな中、先日放映されていました年金の特番を見ていて私は、今まで「年金なんてだいぶ先のことで、自分がもらう頃には殆んど機能してないんやろうし、期待もしてません」なんて、分かったような、分からないようなことを思っていましたが、その番組が進行していくに従い「どないなっとんじゃ、国は。そんなええ加減な事で国民が納得すると思うのか!」と晩酌をしながら一人ブツブツと文句を言っていました。
 前回のコラムや、先ほども書きましたように、今更ながらそんなことを思うのでは本当は遅すぎます。でも、良いように考えてみれば、これで将来の何もかもが決定されたわけでもなく、今から本気で変えていこうと思えば、何とかできるものだと思います。ですからこのコラムを読んでいただいている、ごく少数であろう皆さんも、この機会に少し本気になって考えてみてはいかがでしょうか? っと、こんなことを書いていても、明日になれば仕事に追われ、日々の生活に追われ、中々考える時間や気持ちになれないことが、現実としてのことだと思いますが。
 しかし本来であれば、国がそういった説明を行うべきところを、私自身も、ほとんどわからなかった年金の内容について、その番組がせっかく国になり代わり説明してくれていた中で、ご覧になられた方はしっかりとメモなどを取られて計算されたでしょうが、ご覧になられていない方のために、非常に参考になったところをご紹介してみます。

 「自分が将来受け取れる年金の額」の簡易な計算方法
国民年金の場合
年金を支払った年数 × 二万円 = 年間に受取れる年金額①
厚生年金の場合
①+支払った年数 × 5500円 × 平均年収(百万円の位)
例えば、サラリーマンを38年、平均年収500万円の場合
(38年×2万円)+(38年×5500円×5)=約180万円

 月にして約15万円です。但し、「現在の制度での場合」の目安ですが・・・。

虐待

 先日父親が、「自分を腹立たせたから」という理由で娘の小指を切り落とさせた事件がありました。また母親は子供が「泣いてうるさいから」という理由で床にたたきつけて子供が死亡するという事件がありました。母が「食事も与えず虐待を行い、父はその行為を見過ごしていた」為に子供が死亡する事件がありました。そんな「普通の感覚」では到底信じられないような事件が、世間では数え切れないくらいの多さで発生しています。そんな事件を知る度に、皆さんもそうだと思いますが、私も非常にいたたまれない気持ちと、その親に対する憤りで一杯になります。
 それとは全く別の事ですが、参議院の委員会で年金法案が、あのドタバタ劇の中で賛成多数で可決されました。この可決の様子をテレビで見る限り、私も含め世の人々の大多数である一般人が思う会議の感覚からして、採決の方法が「普通の感覚」では到底考えられない手段と方法で可決された出来事でした。
この二つの出来事の共通点は「普通の感覚」では考えられない出来事です。でもよく考えてみますと「普通の感覚」というのは、俗に言う「一般常識」や「風習や慣習」から「この場合はこうするもの」というものであり、それは即ちそこの中にいる大多数の人が「こういうふうに思う」ことであると思います。そのことについて誤解が生じることを敢て申し上げますと、前者も後者も「閉ざされた環境」の中で、強い者や多数の人が「これでいい」と思ったことがその中で「常識」になり、それ以外の外にいる人たちから見て「普通の感覚」からかけ離れた行動をとるようになるように思えます。
 しかし、前者は人道的に許されるべきことではありませんし、こんなことが再び起こらないように、それぞれの立場で対策をとっていかなければなりませんし、自分の身近なこととして話し合いを行う為にも、報道も行い周知していく必要があると思います。現実に私の会社でもそういった話題がのぼり話をすることがあります。しかし後者はこれからの私達の生活に非常に重要な事柄を決定している事を、前者と同様に報道がされているにも拘らず何の話題も出てきません。それは恐らく私を含め、前者は「自分さえしっかりしていたら何とかできる」と思うことであり、後者は「自分ひとりでなんともできない」と思っているからだと思います。でも本当は前者も後者も同じように捉えられるようにならなければ世の中が変わっていかないことを、心の奥底では分かっているはずです・・・・・。

yahoo

 最近個人的にハマッていることがあります。それは、インターネットのオークションで「Yahoo オークション」というのがありまして、その中の商品を落札することです。何がハマるのかといいますと、前々から欲しかったけれども、どこのショップへ行っても売って無いものや、非常につまらないものでも普通のショップで売っていないものなど、時間があればあっただけ、探せば探すだけどんどんと商品が出てきます。そして何か興味があるものが出てきますと、その商品の落札希望金額を入力し、時間切れになるまで待ちます。時間切れまでに自分が入力した金額より高い金額が入札されますと、「高値更新!」というメールが送られてきて、「再入札しますか?」と聞かれます。自分がその商品を欲しいなら、「ここまでなら出してもいい」と言う金額を再入力し、それが最高値ならば自分の入札額が、「高値更新!」となり再度時間切れまで待つことになります。ただ、人気商品であればすぐに「高値更新!」と言うメールが送られてきて、その繰り返しをするのですが、もうこうなってきますと、自分が出してもいいと思う金額を超えてしまっても、負けず嫌いの性格を持ってしまっている場合は、「何としてでも買ってやる」と言う気持ちになり、どんどん金額が跳ね上がっていきます。そういうやり取りがあったオークションでは、最終的に落札した時点では、非常に満足感はありますが、少し時間がたてば「何でこんなムキに買ってしまったんやろう」という何とも馬鹿らしい気持ちになってしまうのですが、また別の商品で同じようなことを繰り返してしまいます。
 今までそんなやり取りで落札した商品には、中学校の頃によく聞いていたロックグループのCDや(あの頃はレコードしかなく、そのグループのCDが出ているとは思いませんでした)、潜水艦のラジコン、ダカラ小僧の水差しや、車のタイヤなど本当にいろんなものを落札しました。
 先ほどの私の例のように、ムキになって落札するようなことをしなければ、このオークションは、中々見つからないものを探したい場合や、同じ買うなら安く買いたい場合などは、非常に有効な手段だと思います。
 しかしこんなことは、二〇年位前の私が学生だった頃には、こんな事が机の上のパソコンひとつでできるなんて思いもよらなかったことですが、現実にできてしまう世の中になったということです。そうしますと、これから二〇年後には、どんなことができる世の中になっているのでしょうか・・・。

おやじ

 皆さんは普段生活していて、仕事に限らず当然プライベートでもいろんなところに電話したり、お店に行ったりするときに、話したり、お会いしたりした人たちの対応が非常に悪く、こちらの気分が悪くなってしまうことってないでしょうか?そんな時私はいつも「人のふり見て我がふり直せ」の諺を思い出して、「自分はそうしないようにしよう。」と言い聞かせます。
 それとは逆に、すごく気持ちのいい対応をしてくれる人がいると、こちらの気持ちも良くなり、それがお店なんかだったりすると、少し遠いところでも、わざわざ買い物に出かけたり、食事に行ったりしてしまいます。そんなことを考えていますと、普段から「ちゃんとした応対」をとるということは、商売とかそういったことは抜きに考えてみましても、「人」として非常に大事なことだと再認識させられます。更にもう少し深く考えて見ますと、自分に対して不快感を与えられる事が多く続くときは、実は自分が相手に対してそういった対応をしてしまっているから、その相手もそういった対応をしている場合も考えられますので、自分自身も十分に注意していかなければいけないなと思ったりもします。
 そんなことを考えていましたら、三年程前に亡くなった父と、20歳くらいのときに交わした会話を思い出しました。「おい、ヤス。(父からそう呼ばれていました)お前、店に買いもんに行って、金払った後にどうする?」「お釣り貰って帰る」「そうじゃなくて、もの買うて金払った後、帰るときに“ありがとう”も言わへんのか」「別になんも言わへんで」「お前な、店に買いもんに行ったら当然お前はお客さんや。だからお前は遜ることもないけどもな、もうちょっと感謝の気持ちを持ったらどうや。」「何でぇ?」「よう考えてみい。店っちゅうのは、お客さんが買いもんをすることによって収入を得て生活してるんやけどな、でもな、お前が欲しいものを店に置いてくれてるお陰でお前はその商品を買えるんやで。もしその店がその商品を置いてくれてなかったら、お前は欲しいもんが買えへんねんで。もし、そこで商売してなかったら、全く買えへんねんで。せやから、店出るときはちゃんと“ありがとう”って言うて出てくるのが礼儀やろ。」
 少し強引な言い方ですが、内容的にすごく納得しました・・・・。

新学期

 この季節、新入学や新学期を迎えるお子様や、新しく入社を迎える方々は、ようやく一大イベントが終了し、ほっと一息ついておられることと思います。しかし本当は、今までとは違った環境で活動をしていくことになるのですから、ほっと一息ついていることもできず、誰もが必死でその環境に慣れていこうとがんばっているのが現状だと思います。
 私は、今までのそういったイベントが過ぎたときに毎回思うのですが、例えば環境が変わってから、1ヶ月を過ぎたときに、同じ1ヶ月でも普段過ごす1ヶ月と、環境が変わってから過ごす1ヶ月の感覚的な長さの違いは何なのか、もっと具体的に言うとそれは、慣れきった環境で過ごす1ヶ月はとても短く、慣れない環境で過ごす1ヶ月はとても長く感じられるということはどういうことなのか、そのあたりが非常に不可解に思えます。その事を具体的に人生の他の時期に当てはめて考えてみますと、学生時代、特に小学校の6年間という時間は、とてつもなく長く感じられたのに、30歳を過ぎてからの6年間というものはあっという間に流れ、小学校6年間との感覚的な長さが極端に違うように思えます。
何が違うのか、どこが違うのかをよく考えてみますと、小学校の頃は見るもの、感じるもの、経験することが何もかも初めてのことで、一つ一つの出来事が経験として蓄積されていき又、新入学のように環境が変わった時も同じように一つ一つの出来事が経験として蓄積されていくことが、慣れきった環境で普段行うことを、普段のように行っていくことが大きな違いのように思えます。
 それらを整理して考えると、一度や二度経験したことの繰り返しを行う場合は必要でない記憶、例えば「こうすれば、ああなる」だとか、「この場合は、こうだろう」等の経験で分かってしまっている出来事については記憶せず、逆に初めて経験をする出来事を中心に記憶していくことによってその日、その日を必死に過ごしているんだと思います。そしてその当時を思い起こした時にその記憶の数、すなわち「経験の数」によって時間が長く感じられたり、短く感じられたりするのではないのでしょうか。
 そう考えると、人生を有意義に過ごす為には、どんどん新しいことにチャレンジしていき、「経験の数」を沢山作っていくことが、我が人生を振り返った時に「実に有意義な人生」だと感じられることにつながるように思えてきます・・・・。

平等

 つい先日、友人二人と大阪へ遊びに行く途中の車内での会話でした。他愛も無い会話をしていたと思えば、真剣な話をしだしたり。そんな沢山の話の中で、ちょっと興味を引かれることを話していました。
 私は運転していましたので、はっきりと内容は覚えていないのですが、確かつい先日のTV放映で、公立の先生と私立の先生が、それぞれの立場で討議する番組があったらしく、その討議の中で公立の先生が「平等」ということについて語っていたことが、どうも意に適わぬらしく、友人Aは熱く語っていました。
それは、自分たちの子供の頃の学校は、運動会での「かけっこ」は勿論の事、学習の成績も名前入りで当然に順位をつけられていたのに、今の学校は「成績」や「かけっこ」等にも順位をつけず、「平等」を唱えている。確かにそれぞれの人には「平等」でなければならないが、本当に極端に言えば今の方針では、学校へ行っている間には子供達にまったく競争をさせずに卒業させ、社会に出てから始めて競走をさせるようなことになるのではないか。そんなことで、社会に入ってから今のような競争社会に上手く対応できるのだろうか。という感じの内容のようでした。それを運転しながら何気なく聞いていた私は、極端な事を言うなあと思いながらもこんなことを思ってしまいました。
確かに現在は、男女の平等や、人権など、「平等」が当たり前のように叫ばれています。しかし、それらが叫ばれ出した頃は「なるほど、そうだな」と誰しもが思い、非常によい方向に向かっていると思います。しかし、それが当然のようになってきた今としては、「平等」という言葉だけが独り歩きし、何でもかんでも「平等」にしようとしている節も見受けられるようにも思えます。もっと極端なことをいうと、「平等」にすることによって弊害が生じることにでも「平等」を強いていたり、「平等」にしてほしくない環境の人、例えば、男性と同様に働きたい女性には「平等」はありがたいが、そういう風に考えていない女性にさえも仕事の「平等」を無理強いし、精神的に苦痛を与えているケースも、もしかするとあるのではないのかと思いました。
そんなことを考えていたら友人は、最後にこんなことも言っていました。
もし、乗っているバスがバスジャックされて、ある成人男性が、「老人や女性、子供を先に開放してやってくれ」と言うことに誰が反感を感じるだろうか。逆に「ここにいるのは全員平等だから犯人よ、俺から解放してくれ」という人がいたら、みんなから反感をかうだろう・・・・。

音蔵

 少し前のことになるのですが、ある友人が「俺らで音楽のライブやるんで、ちょっと来てくれへん?」と誘いがあり出かけました。その友人は、仕事場の隅にあった「蔵」を音楽の演奏ができるように自分達の手で改装し、音楽をやりたい人達に低価格で提供しています。そんな中、自分達も何かやりたいと思ったのでしょう、先ほどの「ライブ」を開催したのでした。当然のことながら、観客はそのメンバーの友人・知人ばかりで、一般の観客などいなかったと思うのですが、そういったアットホームな中での「ライブ」は、それはそれで中々楽しめるものでした。
 そのライブが進んでいく中、ふと思うことが出てきました。それぞれのメンバーは当然の事ながら、日中は自分達の仕事を持っているため、全員での練習はその仕事の後の深夜に行っているようです。そして人前で音楽を披露するまでには、半年や1年の時間を練習に費やしているようで、失礼ながら私としては正直なところ、音楽を聴いたり楽しんだりということよりも、この忙しい中よくもそこまでやったものだと心底心打たれました。そのメンバーのほとんどは、以前から知っていましたので、彼らがどんな仕事をして、どれくらい忙しいかも分かっていましたので、余計にそう感じたのでした。そう思い彼らが演奏しているところを眺めていると、その狭い空間の中でのメンバー全員が本当に耀いて見えたのでした。
そう思った後、今度は逆にその耀いている彼らを前にして思いました。「俺は一体今、何をやっているんだ。自分自身のやりたいことで、これほど一生懸命に打ち込めるものはあるのか」と。そしてそれは何とも歯がゆい思いと、現在の自分自身と、彼らの現在とに大きく差をつけられているという思いに変わりました。自分はこれほどまでに耀いているのだろうか?自分はこれほどまでにやりたいことがあるのだろうか?思いは尽きなくなりました。
人は誰しも「ああなりたい、こうしたい」という願望はあります。しかしそれを現実のものにするための「行動」の第1歩を中々踏み出すことができません。それは自分の置かれている家庭環境であったり、経済的な環境であったり人それぞれです。しかしよく観察しますと、現実に行動している人は、自分自身の環境と比べてみても、恐らくそんなに大きく環境が違っているわけではありません。それは何か。今まで見ていて感じること、それは「やる気」の違いではないでしょうか・・・・。

さくら祭り

 暖かい日差しが差し込み始め、いよいよ長い冬が過ぎ去り、ぽかぽか陽気の春が訪れようとしています。暖かくなると人は勿論のこと、草木や虫達も活動的になってきます。そんな中、名張の夏見体育館周辺で毎年の恒例行事である「桜まつり」が四月の上旬に開催されようとしています。今年私は宅建協会の関係で本当に微力ながら、その祭りの実行協議会の一員として準備を進めさせていただいているのですが、その会議に出席していて本当にいろんな事が勉強になります。
 例年この祭りの準備をしていただいている方々は、当然に自身の仕事を持ち、そしてそれなりの立場でご活躍されている方々ばかりです。でも少し生々しい話をしてしまいますが、そんな方々が自身の仕事に利益をもたらすことも無いこのイベントの準備に時間を割き、そして実行していくというこの環境は、今の会社をやる前の、サラリーマンとして仕事していた頃の私には完全に無縁の環境でした。それはイベントに参加することはあったとしても、準備する側に参加することは勿論のこと、そのきっかけすらありませんでした。しかし今となってみてよく考えてみますと、恐らくそんな機会は必ずあったはずなのに、まったく興味を示さなかったばかりに、市政だよりやイベント準備参加の募集などの呼びかけに目が止まらなかっただけ、ということに気が付きました。
 結局のところ、人と立場によって違うのは当然としても、私が勤め人として仕事をしていた頃は、まちづくりや地域の事などは他人事で、自分には全く関係の無いことと思っている人が回りに多かったのですが、名張市のように「市」や「まち」が身近に感じられる地域には、自分達がまちづくりをしていくんだ、という人々が非常に多いことが印象的です。そんな中で仕事や暮らしをしていけることは、私にとって非常にプラスで有意義な「まち」であると思います。
 ここで折角ですので、「さくらまつり」のPRをしてみたいと思います。
開催予定 4月3日(土)雨天順延 名張市夏見体育館周辺にて開催
内  容 各種団体による模擬店・バザーや、フリーマーケット、ステージによるショー、ゲームなど
募  集 短冊(1,000円)本年度は審査員による審査の上、入賞者に豪華商品進呈 
     フリーマーケット出店者(1,500円)短冊1枚込み 
 詳細については、名張市広報・桜まつりHP・YOU等をご覧頂くか又は、
 桜まつり実行協議会事務局0595‐63‐0080まで。 

吉野家

 「大盛りと玉子、あと味噌汁ね」という小さい頃から馴染みの牛丼が、各チェーン店のメニューの中から姿を消しました。私は「吉野家」の牛丼が無くなる日の夜、先ほどのメニューを注文して最後の晩餐を満喫しました。「吉野家」と言って思い出すのが、キャッチフレーズの「はやい・やすい・うまい」という方が多いと思いますが、私はその昔TVのコマーシャルでやっていた「やったぜパパ。明日はホームランだ。」というフレーズです。そのTVコマーシャルが放映されていた頃は、現在ほどの店舗数がなかったことや、当時の価格を考えてみても、「牛丼が食べられる」というと物凄く嬉しかったことを思い出します。現在では店舗数も国内986店舗、海外226店舗(平成16年1月末現在)と増え、全国至る所で食べられることや、価格も並盛りも280円と、コンビニで昼食を買って食べるより遥かに安く食事ができることなどから、非常に身近な食べ物となりました。
 嬉しかったといえば、昔はマクドナルドも非常に高価な食べ物という認識で、今でこそバリューセットなどがあり、そこそこ普段に食べられる金額となりましたが、私が記憶している昔の「ビックマック」単体の価格は確か500円から600円位していました。その当時の私の胃袋というのは1個のハンバーガーで満足できるはずもなく、フライドポテトLサイズにファンタLサイズ、更にハンバーガーは3個は注文し、一人2000円位かかるのが普通でした。それくらい出費しないといけない為、兄弟が5人もいて、ただでさえお金のなかった大薮家にとっては、「マクドへ行く」ということは、それこそ年に1度は来るクリスマスよりも貴重なイベントであったのでした。
 そんなことを考えていると、今はすごくいい時代になったんだなあと、つくづく思えます。しかしここで逆に考えてみれば、いつでも行ける「吉野家」や「マクドナルド」という存在は、何か特別なことが無いと行けない頃のそれらより、ありがたさを感じられなくなってきていることは確かです。それは逆に言えば、大げさでなく感動を覚える機会が減ったということに繋がるということではないでしょうか。今ならすぐ買えるものでも、当時はすぐ買えなかったですが、買えたときの感動はあります。いつでも食べられないから、食べられたときに感動します。すぐ買い与えられないから、買い与えられたときに喜びを感じます。
 物が溢れている時代に感動を得られるのはどういう場合でしょうか・・・。

HP掲示板

 先日、同業者の新年会での事です。知り合いの業者さんから、「なんか自分さあ、YOUのインターネットHPの掲示板でいろいろ書かれてるで。」と教えてもらいました。その時まで私はYOUさんのHPを見たこともなく、「???」という感じでしたが、すごく興味があり早速帰って見てみました。
 「あのデカイ顔の看板の人は誰や」とか、「よっぽど自信あるんだろう」など予想通りの書き込みがしてありました。それを読んでいたら、どうしても書き込みをしたくなり、「本人」ということで書き込んでしまいました。翌日になりその掲示板をチェックすると、何と私が20:30頃に書き込みをしたにも拘らず、その後4件も書き込まれていました。
 こんなことで本人が書き込むと、かなり強烈な批判などが来るのかと思って覚悟して読んでみますと、このコラムの事などが書かれていまして、私を知らない方々でも読んでいただいている方がいらっしゃることが分かり、すごく嬉しく、また励みになりました。
 ただ、ひとつだけ、この紙面をお借りして申し上げたいことがあります。それはその掲示板にも書かれていたことですが、今までにも沢山の方が誤解されていることの一つに、私どもの会社が、「近畿不動産販売」という社名で、あの大手の「近鉄不動産」さんと1字違いのため、間違われている方が非常に多く、「近鉄不動産」の方々には、こんな小さな会社と間違われるという多大なご迷惑をお掛けしている事です。そんなこともあり、当社の賃貸部門を「ほーむ るーむ」と名づけ、なるべく他社さんと間違われないように心がけています。
 今回の反応は、お金をかけて広告しているのですから、当然といえば当然のことですが、しかしメディアを使って他社と少し違うことをした場合の反応というのが、これほどまでにすごいものであるということが再認識できた出来事でした。結果としてそれは、良くも悪くも話題に上ったという事だけで、私にとっては非常に満足のいく結果だったのですが。
 そんな中、また別の同業者の新年会の中で、その看板などについて、ある幹部の方からこのようなお言葉を頂戴しました。「君のやっていることは、思いついても実行できない事をやっているので、皆の刺激にもなる事だし非常に良い事だ。ただ注意しないといけないのは、それが君の自己満足の範疇で終わらせないようにすることだな」と。確かにおっしゃる通りだと思い、決して自己満足で終わらせないぞと決意した出来事でした・・・。