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新学期

 この季節、新入学や新学期を迎えるお子様や、新しく入社を迎える方々は、ようやく一大イベントが終了し、ほっと一息ついておられることと思います。しかし本当は、今までとは違った環境で活動をしていくことになるのですから、ほっと一息ついていることもできず、誰もが必死でその環境に慣れていこうとがんばっているのが現状だと思います。
 私は、今までのそういったイベントが過ぎたときに毎回思うのですが、例えば環境が変わってから、1ヶ月を過ぎたときに、同じ1ヶ月でも普段過ごす1ヶ月と、環境が変わってから過ごす1ヶ月の感覚的な長さの違いは何なのか、もっと具体的に言うとそれは、慣れきった環境で過ごす1ヶ月はとても短く、慣れない環境で過ごす1ヶ月はとても長く感じられるということはどういうことなのか、そのあたりが非常に不可解に思えます。その事を具体的に人生の他の時期に当てはめて考えてみますと、学生時代、特に小学校の6年間という時間は、とてつもなく長く感じられたのに、30歳を過ぎてからの6年間というものはあっという間に流れ、小学校6年間との感覚的な長さが極端に違うように思えます。
何が違うのか、どこが違うのかをよく考えてみますと、小学校の頃は見るもの、感じるもの、経験することが何もかも初めてのことで、一つ一つの出来事が経験として蓄積されていき又、新入学のように環境が変わった時も同じように一つ一つの出来事が経験として蓄積されていくことが、慣れきった環境で普段行うことを、普段のように行っていくことが大きな違いのように思えます。
 それらを整理して考えると、一度や二度経験したことの繰り返しを行う場合は必要でない記憶、例えば「こうすれば、ああなる」だとか、「この場合は、こうだろう」等の経験で分かってしまっている出来事については記憶せず、逆に初めて経験をする出来事を中心に記憶していくことによってその日、その日を必死に過ごしているんだと思います。そしてその当時を思い起こした時にその記憶の数、すなわち「経験の数」によって時間が長く感じられたり、短く感じられたりするのではないのでしょうか。
 そう考えると、人生を有意義に過ごす為には、どんどん新しいことにチャレンジしていき、「経験の数」を沢山作っていくことが、我が人生を振り返った時に「実に有意義な人生」だと感じられることにつながるように思えてきます・・・・。

平等

 つい先日、友人二人と大阪へ遊びに行く途中の車内での会話でした。他愛も無い会話をしていたと思えば、真剣な話をしだしたり。そんな沢山の話の中で、ちょっと興味を引かれることを話していました。
 私は運転していましたので、はっきりと内容は覚えていないのですが、確かつい先日のTV放映で、公立の先生と私立の先生が、それぞれの立場で討議する番組があったらしく、その討議の中で公立の先生が「平等」ということについて語っていたことが、どうも意に適わぬらしく、友人Aは熱く語っていました。
それは、自分たちの子供の頃の学校は、運動会での「かけっこ」は勿論の事、学習の成績も名前入りで当然に順位をつけられていたのに、今の学校は「成績」や「かけっこ」等にも順位をつけず、「平等」を唱えている。確かにそれぞれの人には「平等」でなければならないが、本当に極端に言えば今の方針では、学校へ行っている間には子供達にまったく競争をさせずに卒業させ、社会に出てから始めて競走をさせるようなことになるのではないか。そんなことで、社会に入ってから今のような競争社会に上手く対応できるのだろうか。という感じの内容のようでした。それを運転しながら何気なく聞いていた私は、極端な事を言うなあと思いながらもこんなことを思ってしまいました。
確かに現在は、男女の平等や、人権など、「平等」が当たり前のように叫ばれています。しかし、それらが叫ばれ出した頃は「なるほど、そうだな」と誰しもが思い、非常によい方向に向かっていると思います。しかし、それが当然のようになってきた今としては、「平等」という言葉だけが独り歩きし、何でもかんでも「平等」にしようとしている節も見受けられるようにも思えます。もっと極端なことをいうと、「平等」にすることによって弊害が生じることにでも「平等」を強いていたり、「平等」にしてほしくない環境の人、例えば、男性と同様に働きたい女性には「平等」はありがたいが、そういう風に考えていない女性にさえも仕事の「平等」を無理強いし、精神的に苦痛を与えているケースも、もしかするとあるのではないのかと思いました。
そんなことを考えていたら友人は、最後にこんなことも言っていました。
もし、乗っているバスがバスジャックされて、ある成人男性が、「老人や女性、子供を先に開放してやってくれ」と言うことに誰が反感を感じるだろうか。逆に「ここにいるのは全員平等だから犯人よ、俺から解放してくれ」という人がいたら、みんなから反感をかうだろう・・・・。

音蔵

 少し前のことになるのですが、ある友人が「俺らで音楽のライブやるんで、ちょっと来てくれへん?」と誘いがあり出かけました。その友人は、仕事場の隅にあった「蔵」を音楽の演奏ができるように自分達の手で改装し、音楽をやりたい人達に低価格で提供しています。そんな中、自分達も何かやりたいと思ったのでしょう、先ほどの「ライブ」を開催したのでした。当然のことながら、観客はそのメンバーの友人・知人ばかりで、一般の観客などいなかったと思うのですが、そういったアットホームな中での「ライブ」は、それはそれで中々楽しめるものでした。
 そのライブが進んでいく中、ふと思うことが出てきました。それぞれのメンバーは当然の事ながら、日中は自分達の仕事を持っているため、全員での練習はその仕事の後の深夜に行っているようです。そして人前で音楽を披露するまでには、半年や1年の時間を練習に費やしているようで、失礼ながら私としては正直なところ、音楽を聴いたり楽しんだりということよりも、この忙しい中よくもそこまでやったものだと心底心打たれました。そのメンバーのほとんどは、以前から知っていましたので、彼らがどんな仕事をして、どれくらい忙しいかも分かっていましたので、余計にそう感じたのでした。そう思い彼らが演奏しているところを眺めていると、その狭い空間の中でのメンバー全員が本当に耀いて見えたのでした。
そう思った後、今度は逆にその耀いている彼らを前にして思いました。「俺は一体今、何をやっているんだ。自分自身のやりたいことで、これほど一生懸命に打ち込めるものはあるのか」と。そしてそれは何とも歯がゆい思いと、現在の自分自身と、彼らの現在とに大きく差をつけられているという思いに変わりました。自分はこれほどまでに耀いているのだろうか?自分はこれほどまでにやりたいことがあるのだろうか?思いは尽きなくなりました。
人は誰しも「ああなりたい、こうしたい」という願望はあります。しかしそれを現実のものにするための「行動」の第1歩を中々踏み出すことができません。それは自分の置かれている家庭環境であったり、経済的な環境であったり人それぞれです。しかしよく観察しますと、現実に行動している人は、自分自身の環境と比べてみても、恐らくそんなに大きく環境が違っているわけではありません。それは何か。今まで見ていて感じること、それは「やる気」の違いではないでしょうか・・・・。

さくら祭り

 暖かい日差しが差し込み始め、いよいよ長い冬が過ぎ去り、ぽかぽか陽気の春が訪れようとしています。暖かくなると人は勿論のこと、草木や虫達も活動的になってきます。そんな中、名張の夏見体育館周辺で毎年の恒例行事である「桜まつり」が四月の上旬に開催されようとしています。今年私は宅建協会の関係で本当に微力ながら、その祭りの実行協議会の一員として準備を進めさせていただいているのですが、その会議に出席していて本当にいろんな事が勉強になります。
 例年この祭りの準備をしていただいている方々は、当然に自身の仕事を持ち、そしてそれなりの立場でご活躍されている方々ばかりです。でも少し生々しい話をしてしまいますが、そんな方々が自身の仕事に利益をもたらすことも無いこのイベントの準備に時間を割き、そして実行していくというこの環境は、今の会社をやる前の、サラリーマンとして仕事していた頃の私には完全に無縁の環境でした。それはイベントに参加することはあったとしても、準備する側に参加することは勿論のこと、そのきっかけすらありませんでした。しかし今となってみてよく考えてみますと、恐らくそんな機会は必ずあったはずなのに、まったく興味を示さなかったばかりに、市政だよりやイベント準備参加の募集などの呼びかけに目が止まらなかっただけ、ということに気が付きました。
 結局のところ、人と立場によって違うのは当然としても、私が勤め人として仕事をしていた頃は、まちづくりや地域の事などは他人事で、自分には全く関係の無いことと思っている人が回りに多かったのですが、名張市のように「市」や「まち」が身近に感じられる地域には、自分達がまちづくりをしていくんだ、という人々が非常に多いことが印象的です。そんな中で仕事や暮らしをしていけることは、私にとって非常にプラスで有意義な「まち」であると思います。
 ここで折角ですので、「さくらまつり」のPRをしてみたいと思います。
開催予定 4月3日(土)雨天順延 名張市夏見体育館周辺にて開催
内  容 各種団体による模擬店・バザーや、フリーマーケット、ステージによるショー、ゲームなど
募  集 短冊(1,000円)本年度は審査員による審査の上、入賞者に豪華商品進呈 
     フリーマーケット出店者(1,500円)短冊1枚込み 
 詳細については、名張市広報・桜まつりHP・YOU等をご覧頂くか又は、
 桜まつり実行協議会事務局0595‐63‐0080まで。 

吉野家

 「大盛りと玉子、あと味噌汁ね」という小さい頃から馴染みの牛丼が、各チェーン店のメニューの中から姿を消しました。私は「吉野家」の牛丼が無くなる日の夜、先ほどのメニューを注文して最後の晩餐を満喫しました。「吉野家」と言って思い出すのが、キャッチフレーズの「はやい・やすい・うまい」という方が多いと思いますが、私はその昔TVのコマーシャルでやっていた「やったぜパパ。明日はホームランだ。」というフレーズです。そのTVコマーシャルが放映されていた頃は、現在ほどの店舗数がなかったことや、当時の価格を考えてみても、「牛丼が食べられる」というと物凄く嬉しかったことを思い出します。現在では店舗数も国内986店舗、海外226店舗(平成16年1月末現在)と増え、全国至る所で食べられることや、価格も並盛りも280円と、コンビニで昼食を買って食べるより遥かに安く食事ができることなどから、非常に身近な食べ物となりました。
 嬉しかったといえば、昔はマクドナルドも非常に高価な食べ物という認識で、今でこそバリューセットなどがあり、そこそこ普段に食べられる金額となりましたが、私が記憶している昔の「ビックマック」単体の価格は確か500円から600円位していました。その当時の私の胃袋というのは1個のハンバーガーで満足できるはずもなく、フライドポテトLサイズにファンタLサイズ、更にハンバーガーは3個は注文し、一人2000円位かかるのが普通でした。それくらい出費しないといけない為、兄弟が5人もいて、ただでさえお金のなかった大薮家にとっては、「マクドへ行く」ということは、それこそ年に1度は来るクリスマスよりも貴重なイベントであったのでした。
 そんなことを考えていると、今はすごくいい時代になったんだなあと、つくづく思えます。しかしここで逆に考えてみれば、いつでも行ける「吉野家」や「マクドナルド」という存在は、何か特別なことが無いと行けない頃のそれらより、ありがたさを感じられなくなってきていることは確かです。それは逆に言えば、大げさでなく感動を覚える機会が減ったということに繋がるということではないでしょうか。今ならすぐ買えるものでも、当時はすぐ買えなかったですが、買えたときの感動はあります。いつでも食べられないから、食べられたときに感動します。すぐ買い与えられないから、買い与えられたときに喜びを感じます。
 物が溢れている時代に感動を得られるのはどういう場合でしょうか・・・。

HP掲示板

 先日、同業者の新年会での事です。知り合いの業者さんから、「なんか自分さあ、YOUのインターネットHPの掲示板でいろいろ書かれてるで。」と教えてもらいました。その時まで私はYOUさんのHPを見たこともなく、「???」という感じでしたが、すごく興味があり早速帰って見てみました。
 「あのデカイ顔の看板の人は誰や」とか、「よっぽど自信あるんだろう」など予想通りの書き込みがしてありました。それを読んでいたら、どうしても書き込みをしたくなり、「本人」ということで書き込んでしまいました。翌日になりその掲示板をチェックすると、何と私が20:30頃に書き込みをしたにも拘らず、その後4件も書き込まれていました。
 こんなことで本人が書き込むと、かなり強烈な批判などが来るのかと思って覚悟して読んでみますと、このコラムの事などが書かれていまして、私を知らない方々でも読んでいただいている方がいらっしゃることが分かり、すごく嬉しく、また励みになりました。
 ただ、ひとつだけ、この紙面をお借りして申し上げたいことがあります。それはその掲示板にも書かれていたことですが、今までにも沢山の方が誤解されていることの一つに、私どもの会社が、「近畿不動産販売」という社名で、あの大手の「近鉄不動産」さんと1字違いのため、間違われている方が非常に多く、「近鉄不動産」の方々には、こんな小さな会社と間違われるという多大なご迷惑をお掛けしている事です。そんなこともあり、当社の賃貸部門を「ほーむ るーむ」と名づけ、なるべく他社さんと間違われないように心がけています。
 今回の反応は、お金をかけて広告しているのですから、当然といえば当然のことですが、しかしメディアを使って他社と少し違うことをした場合の反応というのが、これほどまでにすごいものであるということが再認識できた出来事でした。結果としてそれは、良くも悪くも話題に上ったという事だけで、私にとっては非常に満足のいく結果だったのですが。
 そんな中、また別の同業者の新年会の中で、その看板などについて、ある幹部の方からこのようなお言葉を頂戴しました。「君のやっていることは、思いついても実行できない事をやっているので、皆の刺激にもなる事だし非常に良い事だ。ただ注意しないといけないのは、それが君の自己満足の範疇で終わらせないようにすることだな」と。確かにおっしゃる通りだと思い、決して自己満足で終わらせないぞと決意した出来事でした・・・。

熱帯魚

 最近、事務所のレイアウトを換えたついでに、インテリア的にもにいいのではないかと思い、年末から事務所で熱帯魚を飼い始めました。何も分からずに飼い始めたものですから、失敗していることにも気づかずに2~3匹天国に召された子達もいましたが、今は比較的安定して皆さん暮らして頂いております。飼い始める前、既に飼っている人が「何時間でも水槽の前でぼんやりと眺めていられるんやで」と言っていたのを聞いたとき、じっとしていられない性格の私には、そんなことは到底出来ないと思っていました。ところが、いざ飼い始めてみますと、こんな私でも何時間はオーバーな表現としても、何分も眺めてしまうのです。
 小さな子を大きな子が訳もなく追い掛け回すところや、ちょっと骨の曲がった奇形の子が一生懸命に泳ぎながら餌を食べているところ、同じ種類同士の子達が群れをなして同じ場所で遊泳しているところ、それぞれ自分勝手に動き回るタニシが、小さな口のようなものをパクパクしながらガラス面に張り付いた藻を食べながら動き回ることころなどを見ていると気が付くといつの間にか時間が経っています。こうい事を世間で言う「癒されている」というのかなと思いながら一日何度見ても飽きません。
 また、餌を与えようとそのケースを持った途端、一斉に全員の動きが活発になり、餌が落ちてくる場所に集合してきます。こんな小さな熱帯魚でも、これだけこちらの行動に反応するところを見てしまうと、とても可愛らしいなと愛着が湧いてきてしまいす。
 前にもこのコラムで書かせていただいたように、私の家では「うめ吉」と「まつ吉」という二匹の犬が暮らしております。昼は私たちが仕事をしている為ケージの中で過ごし、夜帰宅してからは一緒に寛ぐという毎日を過ごしております。そんな中、たまに思うのですが、もし、これで誰も帰ってこなくて食事も与えられず、ケージからも出してもらえなければ、それこそ一週間も経たないうちにその生命は終わります。それは水槽の彼らも同様で、それだけ飼っている私たちの責任は大きいのです。しかし、そんな彼らは私たちに何をしてくれるのでしょうか?経済的に助けてくれるのかといえばそうではないし、家事を手伝ってくれるのかといえばそうでもありません。
では何故こんなに大切で、こんなに愛着があるのでしょうか。それは恐らく彼らが私たちに「全面的に信頼し、全面的に生命を預けている」からでしょう・・・。

同窓会

 先日不意に、高校の同級生から16年位ぶりに電話が入りました。それは「同窓会をやろう」という内容のものでした。よく考えてみれば、十八歳のときに卒業し、今私達は三十六歳、卒業して十八年目なので、ちょうど今の人生の半分の時期に卒業したことになります。そんな話をしているうちに、私も幹事に加わることになり、早速最新の卒業者名簿を片手に、同級生宅へ連絡を始めました。そのクラスの同窓会は、高校卒業後に二度ほど行っていますが、卒業してすぐの二年間だけのことで、本当に久しぶりに話をしました。
 そんなある日、いつもより少し早く起きた朝に、気になっていた卒業アルバムを本棚から抜き取り、少し眺めていました。少しの時間だけ思い出に浸り、そして本棚へアルバムを戻したその時、その脇にある色あせたワラ半紙の塊が目に飛び込んできました。それは、そのクラスの全員で創った「卒業文集」でした。手に取ってみた、その十八年前のワラ半紙は、今にも破れそうな状況ではありましたが、皆が当時十八年という人生を歩んだ証を思い一杯に書き記してある、もう二度と創れない貴重なワラ半紙でした。
 パラパラと捲っていくと、(とは言っても、やはり一番最初に探すのは自分の書いたページですね。)本当に「青春」という感じがして、自分は年を取ったんだなぁと実感させられました。ちなみに私はこの卒業文集の自称「編集長」をしていたようで、巻末に二ページ分、今読み返すと顔から火が出るような「編集長から一言」という長々とした文章を書いていました。恥ずかしながら、そのごく一部の一文を、そのまま抜粋してみます。
 「・・・・“燃える心”“一生懸命にやる”ということは、何か目標を作れば出来る。せやけどその目標がなかなか見つからへんし、なかなかわからへん。せやけど自分がこれやと思うもん見つけたらいっぺんやってみ。ほんでとことんやって、やっぱり違うと思ったらまた違う目標作ってみ。“燃える心”“一生懸命にやる”を持ったら人間変わるで。見違えるほどイキイキすんで。それが本当の目標やったら苦労も苦にならへんで。皆まだ若いんやからできる。
 「失敗は成功のもと」って言うくらいやから失敗を恐れんとやってみるんや。大学行くヤツは幸せやぞ。四年間あるんや。せやけどボーっとしてたらすぐや、四年間なんか。就職するヤツは仕事に目標作るのもいい。日曜や仕事終わってからでもええ。目標見つけて”燃えろ“。ほんで周りのやつに精神的に差をつけたれ。」お恥ずかしい・・・。

すごい人

 「あの人はすごい人だ」「あの人は天才だな」などと言われる人達が、それぞれの分野で、またあらゆるシーンで活躍しています。 私の周りにもそういった「すごい人」と思える人が何人かいます。そういった人達は、到底自分には出来ない行動や、自分には体験できない事などを体験されているので、話をさせていただいていると、非常にワクワクし、ますます尊敬していきます。 そういった人たちとの会話を一つ一つ整理していくと、それぞれのポリシーがあることとは別に、それらの方々の行動や考え方に、ある共通点があることに気づきました。それは「行動力」と「何事にも前向き」な事です。
 人は落ち込む時や、躓く時など、下向きの気持ちになる事が必ずあると私は思っているのですが、そういった人達はそんな素振りを人前で見せないのか、それとも本当にそんな気持ちにならないのか分かりませんが、私にはそういう風な落ち込みを見れない人が多いです。そんな事を考えていたら、先日ジャズシンガーの綾戸智恵さんが出演していた番組で言っていた言葉を思い出しました。
 彼女は、自身が若い頃、単独でアメリカに渡り、歌手を目指してがんばっておられました。そんな中ある時、どれだけがんばっても少しの声も全く出なくなった時期がありました。絶望の中で歌手を諦めようと思っていた時不意に、あるきっかけで声が出るようになりましたが、以前のような声域には戻らず、やはりシンガーとしての将来が絶望視されました。 しかし、ここからが凄い事なのですが、それが逆に幸いし、本人曰く、「私は、他のシンガーより声域が狭いから、こうやって(すごく豊な表情や体の表現)するんです。」と笑って言っていました。 そうすることで、結果的に今までのシンガーとの違いが認められ、世界的な成功を収められました。
 そんな事を考えていたある日、ある人曰く、『「話をしていると、本当に普通の人なのに、その人の活躍している世界ではものすごい人」という人が一番凄い人物で、皆に「すごい人」と思われる人物は「そこそこできる人」なんだよ。分かり易く言うと(決して私が言っているのではありませんよ)「天才」長島茂雄さんみたいな人』という人がいました。
 そう言われるとそうも思えますし、よく判りませんがもしかすると、「天才」と「すごい人」の違いなんでしょうか・・・・・。

ブランド品

 先日、馴染みのスナックに行ったときのことでした。偶然知人がいまして他愛もない話をはじめました。その時、携帯電話のストラップの事で少し話しが盛り上がりました。知人は、携帯電話にいわゆる「ブランド品」のコピー(贋物)のストラップをつけていましたが、周りの人も少し巻き込んで、そのストラップがもし正規の品ならいくらで購入するかということを話しました。ある人は「3千円」またある人は「5千円」とストラップ一つのことでああでもない、こうでもないと時間を潰しました。
 その時思ったのが、「ブランド品」というのは、皆が気軽に買えず、又、皆があまり持っていないから、自身が所有していることにステータスを感じるもので、「これなら買う」と皆が思う金額を設定したら、沢山の人が所有し、ステータスを感じないのではないか、ということでした。そうすると、「ブランド品」の価格は、皆が「これは高うてよう買わんわ」という価格に設定しないといけなくなりますが、でもメーカーサイドとしては、商品が沢山売れないことには利益は出ないし、その双方の分岐点が非常に難しいラインになってきます。ただ、「A」というブランドと「B」というブランドとでは、その「ブランド」によってラインがまちまちで「このブランドならこの価格まで」という分岐点もあるので価格設定というのは非常に難しい事だと思いました。
 そんな、私には何の関係もないことを延々考えていたら、ふとバブルの頃に思ったことを思い出しました。周りは、やれ ヴィ**だ、やれ **ネルだと、男性、女性、老若男女を問わず買い漁っていました。私も周りがそういう風潮になっていくと影響されやすく「ブランド品」が欲しくなりました。しかしまだ二〇歳そこそこの安月給で持てる筈なく、いつしか偽者を持っていました。そんなある時、ふと考えました。なぜ自分は偽者を持っているんだと。持っていることにステータスを感じるのは宝石や貴金属でよく、鞄や、財布、靴など本来使ってナンボの品物は、自分の懐や、感性・使用目的に合った商品やサービスの提供をしている「ブランド」を探して身に付けることのほうが、よっぽど「かっこいい」ことではないのかと。
 そして、その決意を胸に探し出しましたが、未だに見つけることが出来ず、そして諦めからか、あまり考えもせず、最近はデザインと価格だけで選んでいる自分がいます・・・。