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ブルーレイ VS HD-DVD

 その昔、SONYが陣頭を取っていたβ(ベータ)方式のビデオデッキの規格と、日本ビクターが陣頭を取ったVHS方式のビデオデッキの規格との戦いで俗に言う「ベータ・VHS戦争」というものがありました。個人的にはその戦争の頃は私は中学生でしたから、当時20万円以上もしたビデオデッキを自分で購入することは当然できず、別々の友人の家にある双方のビデオデッキを見比べて思ったのが、SONYが開発したβ方式のほうが画質も音質もよかったと思いますし、何よりビデオテープのサイズがVHSの3分の2くらいだったこともあって、収納や持ち運びの事を考えてもトータル的に条件が勝っているのはβだと思いました。しかし、結果としては皆さんもよくご存知ように、条件や性能的に優位だったβが市場から消え、VHSが勝利しました。
 これは単にビデオデッキ本体の価格がβのほうが高かったという単純な理由でなく、消費者としてはそれがよりよい商品とわかっていても、購入後のその商品の将来性や発展性、実用性などが見込みにくい商品よりも、それらが見込める商品を購入するという、市場戦略や顧客心理をうまく掴んだ販売戦略の勝利と言えます。
 そう考えますと我々消費者は極端な話、あるメーカーが凄く良い商品を作っていたとしても、世間に訴えられる販売戦略を持っていない限り、その商品より劣る商品のメーカーが、より良い販売戦略を展開することによって一つや二つ条件も性能が劣っている商品を買わされている可能性があるということに気付きます。       
 最近はそんなビデオデッキに代わりDVDやHDなどが主流になってきましたが、次世代DVDと言われるHD-DVDとBDの規格についてもまた2陣営の戦いが終止符を打とうとしています。一体いつまで消費者不在のメーカー戦争を繰り返していけば気が済むのでしょうか・・・。

夜のピクニック

 「昔はよかった」「昔はいい時代だったのに」年齢を重ねるほどに口にされる割合が上がっていくのではないでしょうか?一方こういう格言もあります。
 「古きよき時代―――すべての時代は古くなると良くなる。―――英国の詩人 ジョージ・ゴードン・バイロン(黄金時代)より」
 これらの言葉を信じるとすれば我々は最悪の時代を常に更新しながら生きている訳になります。これらの言葉は時代が悪くなっていっているのではなく、「昔は輝いていた自分」と「今は輝きを失ってしまった自分」との落差に内心気づきながらも、時代のせいにしているのかもしれません。だとしたらこの上なくネガティブな言葉です。
 私も年々こういった言葉を口にすることが増えてきました。と言いますのも、小説「夜のピクニック/恩田睦」を読んだからです。「夜を徹して八十キロを歩き通すという、高校生活最後の一大イベント「歩行祭」。生徒たちは、親しい友人とよもやま話をしたり、想い人への気持ちを打ち明け合ったりして一夜を過ごす。そんななか、貴子は一つの賭けを胸に秘めていた。」このあらすじにワクワクしながら2晩で読破しました。帯に「この本を読んでいる間はみんな18歳に戻れる」と書いてありましたが、見事に高校時代にタイムスリップして、感傷に浸ってる自分がいました。やはり私も高校時代は勉強は大変で、さらに将来何をしたいのか自分でも分からず進路にも頭を悩ませていましたが純粋に楽しい日々でした。また、未だ見ぬ未来に希望を持っていました。
 「古きよき時代」といった類の言葉はこういった見方もできると思います。もがき苦しんだり、苦労したりしながら、それを乗り越え、自分の血となり肉となった体験を自分のプラスになった「良かったもの」と過去を肯定する視点で認識できている証拠なのかもしれません。それはいい意味で「大人」の視点で物事を見ることができるようになった証(あかし)なのだと思います。
 現在色々大変であり、苦労も耐えない「最悪な」この時代でも将来、それを乗り越え、自分が少しでも成長できたとき、また「大人」になることができたとき、あの頃は良かったと言える時が来るのではないでしょうか。
 過去を懐かしむ時、未来においても懐かしむことができるような過去にするような生き方を今現在しなければいけないと思わせてくれた1冊でした。
 (筆)株式会社 近畿不動産販売  流通営業1課課長 平居 慎也

人生折り返し点

 とうとう私もこの1月に40歳になってしまいました。人生の折り返し点である40歳という年齢になり、今までと同じと言えば同じなのですが、何故か責任の重さが違うような気がしてきます。しかし、私だけなのかもしれませんが、10代から20歳になったときや、30代から40歳になった今よりも、20代から30歳になったときのほうが、責任を感じる大きさが大きかったことに気づきました。
 私は19歳に前に勤めていた会社に入社し、一般常識や不動産とはなんぞやなどを勉強しながら20歳を迎えました。その時の感じは「大人になった責任」という感じよりも、「やっとハタチになった」と言う感じでした。その後東京へ転勤になった20代半ば頃からは責任のある立場で仕事をさせていただいている中で、「若くして責任のある立場」というものをお客様から言われたり、自分自身でもそう感じたりしたものでしたが、それが30歳になった時、「若くして」というフレーズが消えることに、とてつもなく責任感を感じたものでした。そして34歳でこの会社を立ち上げてからも「ある程度若くして起業」という感を持ちながら40歳になって、また「ある程度若く」というフレーズが消えていきましたが、30歳に感じたあの重さほどは感じませんでした。
 何故なんだろうかと考えてみましたら、それはもしかしたら、20代というのは本当の意味で社会的責任を取れるようになるための準備期間であり、30歳になって初めてその段階まで上がることが出来るのではないか。そして40代は50代、60代というもう1段階上の責任を全うする為の準備期間である、ということではないかと思いました。
 そう考えますと、今議論されている成人の基準を引き下げるということよりも、逆に引き上げる必要があるような気がしてしまいます・・・。

メッセンジャー 杉浦貴之さん

 先日、奈良の西大寺で行われました杉浦貴之さんのトーク&ライブに参加させて頂きました。杉浦さん?と聞いてほとんどの方はご存知ないと思いますが、(杉浦さんスイマセン)この方は各地でトーク&ライブを行い、自らが体験した闘病のお話や、その時々に感じた思いを歌にして伝えるといった活動をされています。ご興味のある方はHP( http://www.taka-messenger.com 又は弊社HPのトップページからもリンクしています)をご覧いただくとして、大まかに申し上げますと、28歳の時に腎臓がんに侵され、その時両親には「余命早くて半年、長くても2年」という宣告を受けながらも癌を克服し、10年経った今も精力的に活動をされておられます。その活動は多岐にわたっているのですが、中でも重要な「仕事」の一つに、メッセンジャーという雑誌を編集出版されることが挙げられます。この雑誌は2005年1月に創刊してから隔月で発行し、現在までに18号を発行。また病気になってからボイストレーニングを受けることによってオリジナル曲のCD「Life is strong」をリリースしたりと、私が想像するにそれこそ「病気」になるほど忙しい生活をされておられます。
 しかし、そんな杉浦さんのトーク&ライブでお話や歌を聞かせて頂いて、やはり人間というのは「気持ち」次第でどうにでもなる動物なんだということを再確認させていただきました。病気しかり夢もしかり、ここで限界と考えればそれ以上の結果は生まれることなく、逆にそこで諦めなければいつまでもそれが達成できる可能性を残していけるということ、また病気にならなければ気付くことがなかった物や人への感謝の気持ちを素直な心で表現することがどれだけ大切なことかということなどを、彼が得意とする下ネタを交じえて聞かせて頂けたのは、最近下降気味の私の心に重く響きました・・・。

有言実行

 よく言われることですが、月日が経つのは早いもので、平成も始まって20年となり、平成元年の生まれの方々は成人式を迎えるという年になっています。そんな月日もそうですが、実はこのコラムも結構続いておりまして、2002年4月にこのコラムの掲載を始めてから早や6年目に突入し、今回で119回目を数えるまでになりました。これもひとえに地域の皆様が、当社へ不動産のご依頼を賜ってこその継続であり、その点につきましても本当に心から感謝しております。これからも私の脳細胞が文章作成に支障をきたす(?)ようになるまで継続していきたいとい思っておりますので、是非本年も昨年同様のご依頼を賜りますよう、宜しくお願いいたします。
 そこで新年の恒例といえば、かなり月並みになってしまいますが、「新年の決意」をしてみたいと思います。私は以前のコラムにも書かせていただきましたようにかなり意思の弱い人間です。ですから何かをやろうと決めた時は「有言実行」するようにしていますので、今回は新年の決意を宣言しようと思います。
 私と面識のある方は当然ご存知ことですが、私の身長は168㎝でありながら座高が1m近くあり非常にアンバランスです。ある同業の社長さんに言わせれば「大薮君は階段下りる時、ケツ擦って下りるんやろ」とまで言われるくらいです。ですがここまで足が短いと逆にこの身長でこの座高の人はいないだろうと、いつも自慢しているような状態ですので、何事もものの取りようでしょう。しかし最近、昨年初頭にした宣言通りに禁煙していましたら、もともとスリムではない体形が、何と76Kgまで成長してしまいまして、それこそ「チビ・デブ・短足」と三拍子揃ってしまいました。ここはさすがにこのままではいかんなと思い、ここで宣言してみたいと思います。「夏までに70Kgを切るぞ」と・・・。

顔トレーニング

 最近の○ンテンドー○Sなどのゲームは、今までゲーム機には縁がなかった人たちが次々と購入していき、どんどんゲーム人口が増えてきているようです。それはゲーム機自体のハードが発達したというより、遊ぶためのソフトの作り方が今までの枠からはみ出したためで、例えば今までは読書したり、雑誌を見たり、ビデオを見たりするのにはそれぞれを購入していましたが、これらはすべて1台のゲーム機で出来てしまうといった使い方ができるからなのでしょう。そんないろいろなソフトが出ている中で、美容やエステに関係するもののあり、顔を動かして若さを保とうというようなものもあります。そんな「顔トレーニング」をTVの特集でやっていて、年齢には程遠いくらいの若さを保っている人を見たときに、ふと不思議な感じを受けました。
 私が幼いころの両親などは、私が当然子供であったために、私から見れば物心つく頃から完全な大人の中年で、祖母などはその頃からおばあちゃんでした。そして少し大きくなり友人の父親などが聞く音楽は「演歌」で私もある程度歳を重ねたら演歌が聞きたくなるんだろうなと真剣に思っていました。でもよく考えてみますと、私が物心つく頃の私の両親の年齢は、20代後半から30代半ば、おばあちゃんなどは50代であったはずなのに両親は完全に中年で、おばあちゃんは本当におばあちゃんという感じでした。しかし、今の20代の親や、50代のおばあちゃんは、40歳になろうとしている私から見ると、決してそんな風には見えないのですが、今の子供から見ると、私が感じたように見えていたり、 また私も間もなく演歌を聴きたくなるのでしょうか?
 しかし実感として、日本人は昔の年齢に比べて若くなってきていると思います。それはやはり平均寿命が延びているということも関係しているのでしょうか・・・。

満員電車

 今回は社員Iの主張
 通勤に電車を使っている人、多いでしょう。私もその一人。欧米人とは違い、日本人は残念ながら、毎朝出かける前にたっぷり時間をとる習慣はありません。眠たい目をこすりながら、満員電車に揺られ職場に向かう。殆どの方がこの光景、目に浮かぶのでは?ところでこの満員電車、色んな発見があります。どちらかと言うと良い発見ではないのがちょっと辛い。例えば大きな音で音楽を聴いている人。気分がいいのは本人だけで周囲にとっては不愉快極まりない。時代でしょうか、テレビ付き携帯のテレビで音声を出しながら観ている人や平気で通話している人・・・。「ダメ」と解っているはずの事を「平然」とやる「大人」の行為に本気で悩みます。でもこれはまだ許せます。こういう人達は結局笑われている訳ですから。私がもっと許せないのが「リュックサック」。特に学生さんが多いでしょうか、背中にリュックのようなカバンを背負っている人をご存知ですか?空いている電車ならまだしも満員電車でこの「リュック」の後ろに立つともう最悪です。本人はカバンを背負って両手が空く訳ですから楽でいいでしょう。でもその後ろに立つ人は、そのリュックに押される様な格好になってのけぞることになるからとてもしんどい。しかも満員だから横にも後ろにも逃げられない。おそらくと言うよりまず間違いなく本人は気付いてない。
 この「気付かない」、「判っていない」ことが実は一番罪なのでは・・・と思います。と言いながら私自身も周囲の人から指摘されるべき点がいっぱいあるかも知れませんのであまり偉そうには言えませんが。ただ、常に意識するようには心がけています。それだけでも全然違うはずですから。何も感じない人と感じる人。
 感性はこれからも意識して養い続けていきたいですし、気付く人間で居たいと思います。

嘱託殺人

 ここまた最近になって自殺や嘱託殺人の事件が出ています。人はなぜ生きるのか、なぜ死ぬのか、とおよそ悟りでも開かねば結論の出ない疑問は、一般人の私にはそれこそ死んでも分からないのでしょう。しかし、かなり不謹慎ではありますが、このことについて少し疑問に思うことがあります。それは自分は死にたいが自ら命を絶てないので、他人に依頼する。依頼された者は依頼者の意思に従いその命を絶つ行為を行う。これをもう少し考えますと、依頼者が何らかの理由で最終的に命を絶つ行為ができないだけで、受託者が依頼者を憎んでいたり、敵対的な殺意があるわけでなく、あくまで依頼者の意思を代行すると「殺人」となるのは、日本の法律がその行為を「犯罪」としているからです。それならば、「自殺」は死にたい自分が自ら命を絶つ行為をしたことによって、自らを「殺人」した罪に問われても良いような気がします。これを別の角度で見ますと、最近よく問題となる「いじめによる自殺」などは、いじめる側が命を絶つ最終行為をしていないだけで、どれだけその人を自殺まで追い込もうが犯罪とはなりません。
 当たり前に人の命を寿命でなく絶ってしまうような行為を決して行うべきでないことは当然のことです。しかしこう考えますと犯罪であるか犯罪でないかということは、ある一定の決まりに従っているにすぎないのだということに気付きます。例えば平成12年に施行された動物愛護管理法ができるまでは、極端な話どれだけ動物を虐待しようが、なぶり殺そうが罪にはなりませんでしたが、その法律ができてからは「犯罪」となります。
 ですから当然に罪を犯してはいけませんし、それに加担することもいけません。ただ、やっていいことと悪いことの判断基準に犯罪になるか、ならないかだけで決めてしまっている部分がないと言い切れるでしょうか・・・。

事務所費問題

 少し前に浜松の公立病院の未収金の累計が9000万円を超えたというニュースがありました。どの病院でも未収金の問題には頭を悩ませているようで、TVの特番でもたまに特集が組まれたりしています。ただ、この病院の未収金については、3年程前から急激に増加しており、その理由として市民に広がるうわさが大きな要因になっているということです。そのうわさとは、「あの病院はお金を払わなくても平気」「昼より夜に行った方がいい」という公立病院だから自分が払わなくても税金で何とかなるだろうという考えと、夜間に行けば会計処理ができないのでその場で支払う必要がないなどという、全くもって自分勝手なうわさであるようです。このニュースと同じような感覚を覚えたのは、給食費の滞納問題です。全国約1000万人の小中学校の生徒の内、約1%に当たる9万9千人分の給食費が未納となっており、滞納総額はなんと22億円に上るということです。
 こういうニュースを見るたびに、本当に経済的に窮困している人たちは除いて考えて、ほんの一部の人の責任で、まともにやっている大多数の人達が迷惑を被る事になることが後を絶ちません。これらはすべて、自分だけ不正をしても何も影響が出ないだろうとか、みんなやっているから自分もやってもいいだろうという身勝手な考えからくるものです。それが全ての日本人の基本的な考えであるのだろうかと錯覚するほどに思えるのは、この問題の少し前に見たTV報道でのひとコマです。
 それは日本国民を代表する国会議員が、我々一般の国民にとってはそんな使い方や報告はあり得ないでしょうといった使い方をしていたにもかかわらず、自らの事務所費について記者に追及された時に、「10年前なら何も問題になっていなかったことが、最近では問題にされてしまうんだよなぁ」と。そういう問題でしょうか・・・。

特権階級

 最近は年金問題や、議員の金銭の不正使用問題、役所職員の横領事件など毎日のように新しい問題が出てきています。最初は「何やっとんねん!」と怒りが込み上げることが多かったのですが、ここまで次々と毎日出てきましたら、いけないことでしょうが「またか」となって怒りどころか興味自体が出なくなってきました。
 よく考えますと、一般の会社組織でこんなことが次々と出てくれば、話は全く異なります。まずマスコミに叩かれ、検察が動き、消費者からの信用をなくして、挙句に会社自体の存続が困難な状態になります。そうなりますと会社を潰すか、運がよければどこかの資本に救援してもらい、世間に再生を誓うということになってしまいますが、これが政治の世界ですと、よほどの個人的過失がない限り議員の先生方は役職を失ったり表舞台に出なくなるだけで、議員を辞めることはあまりありません。しかも、刑事事件で実刑が下され、辞職したにもかかわらず再度出馬し、再び議員になるという一般社会では到底考えられない図式が成り立ちます。
 ですから、こう書きますとかなり乱暴な言い方になってしまいますが、それほどの世界で今起こっている不祥事というのは、自分たちにとっては何とでもない事ではあるが、うるさい奴らがゴチャゴチャ言うので、仕方なく「今の“チャンス”に出せるだけ出して、全部うやむやにしたれ」と意図的に行っているようにしか私には見えなくなってきました。
 そんな事を考えますと、年金や税金などは国民の義務として当たり前に徴収されるべきものと頭の中では分かってはいても、これだけ不明瞭に使用していたり、横領されていたりすると、いい加減払うのが馬鹿らしくなってきます。しかし日本には「特権階級」が存在しないという事を信じてもう少し義務を果たしましょうか・・・。