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ライブドアVSフジテレビ

 近日メディアや、新聞紙上でライブドアとフジテレビの攻防戦のニュースが報じられない日はありません。ここ数年で急激に成長してきたライブドア(堀江社長)と、日本のメディアの老舗で大手である巨大企業との戦いが、どちらに軍配が上がるかという事に対し、私を含めた国民の関心事となっています。そんなさなかにいろんなTV番組では、司会者やゲスト、経済評論家などが、「ああでもない、こうでもない」と互いの戦い方やメディアのあり方などについて議論を交わしています。
 そんな中少し前になりますが、ある番組で「ライブドアとフジテレビ」のどちらを応援するかという世論調査を行っていた番組があり、結構面白い調査結果を出した番組がありました。それは性別、年代別に支持率を出していたのでしたが、私はそのとき司会者も言っていたように、ライブドアは「若い世代に支持されている」と思っていました。若者はいつの時代も権力や制度、風習やシキタリを嫌う傾向があり、表現が正確ではないですが、フジサンケイグループよりも小さくても、ライブドアのような風雲児的な者の肩を持ち、より大きな組織体を打ち負かすというような状況を好みます。その為、先述のように若者の支持が多いと思っていましたが、ふたを開けてみると、実は「団塊の世代」の支持が圧倒的に高いという結果が出ました。
 「団塊の世代」といえば、一般的に現在の会社組織でいうと「課長」「次長」「部長」というような、その組織では責任のある立場の方が多い世代で、イメージ的には「ぽっと出の若者が世の中の仕組みも分からんと」と一蹴してしまいそうな感がありましたが、意外な結果でした。
 しかし、良く考えて見ますと、「団塊の世代」というのは、今の日本の全労働者の中で、最も「過激」かつ「競争の激しい」青春時代を過ごした世代です。そんな時代を過ごした人たちを想像すると、その世代の人は、「熱かった時代」の心は残りつつも、仕事上の立場や家庭環境を考えると、もう今となっては体制や環境を破壊する事はできないが、そんなことをする人物が現れたら、「やれやれ!やってしまえ」と心の中でエールを送るのでしょう。
 立場や環境があるので、表面的には保守的で常識的な発言をせざるを得ないかもしれませんが、本心では先述のような考え方の人が私よりも上の世代で存在し、しかもその人たちというのは、今の社会構造の中で最も責任のある地位や立場の人が多いという事が、私には非常に嬉しくまた、頼もしく思えた調査結果でした・・・。

老後の不安

 ある日、一人で行った馴染みのバーのカウンターで、たまたま隣同士になった、頭が少し薄くなってきている中年男性と話をしていました。その方は何か事業をされているらしく、マスターから「社長」と呼ばれていましたので、私もその方の名前は聞かず「社長」と呼んでいました。
 その「社長」とお話をしている中で、少し興味を引いた話がありました。それは、その「社長」の知人の方が、身寄りのない独り者で、つい先日なくなられたのですが、残されたお金や財産が結構あったらしく、それらは国庫へ納められるというお話でした。
 その「社長」もつい先日離婚されたばかりのようで本人曰く、「訳のわからん遠い親戚に、転がり込むような形で相続されるくらいなら、国にあげたほうがましやわ。でもそれよりもっとええのは、老後の生活を保障してくれるんやったら、全財産を国にあげてもええわ。」ということでした。それを聞いて私は、確かにそれは一理あると思いました。
 人は老後の生活がどうなるのか、特に子供や頼れる人がいない場合、本当に頼れるのは「お金」になってしまいます。それは、「あと何年何ヶ月私は生きるので、生活費がこれくらいで、娯楽費がこれくらいで、医療費がこれくらいで、それを足して○○万円あれば大丈夫。」ときっちり計算できるようであれば、それ以上のお金はそんなに必要が無くなります。しかし、現実にはあと何年生きられるかや、どんな病気になるかもしれない状況では、いくらお金があったとしても不安になるのは当然です。だから死んでまでお金が持っていけない事は分かっていても、出来るだけ支出を減らし、お金を増やそうとする為に、終期には沢山お金や資産が残ってしまう事になってしまいます。
 だから、先述のようなことを言うんだなと思いながら、簡保や生保のHPでそんな商品がないかなあと見てみましたが、一つの年金の受取額だけで満足な額が受け取れるものは、ざっと見た限りではありませんでした。(詳しく調べればあるのかも知れませんが)それは、年金を「商売」としてみたら成り立たないのであって、もし、成り立つならやっているでしょう。
 そう考えますと、このような事はやはり国や自治体が行うべきものであると言えます。しかし、以前に新聞で見てどういう名称か忘れたので調べられなかったのですが、東京都では自分の家を自治体へ所有権移転し、その後、年金として決まった額が受け取れ、相続が発生すれば売却されるという制度があったように思うのですが、そういった制度をどんどん増やしていけば、老後の不安も少しは解消されるでしょうに・・・。

女々しい

 「女々しい」・・・いくじがない。思い切りが悪いなど男としてふさわしくない(大辞泉より)
 「おんな おんな しい」と書いて「めめしい」と読みますが、この言葉を皆さんはどう思われますか?
 日本では女の人は昔から「でしゃばらず、物静かで、清楚で・・・。」と、まるで感情のないロボットのような振る舞いが、良い女性の振る舞いであるというような風潮があったようですが、現実にはどうだったのでしょうか?現存する書物の中ではそのような女性の姿が描かれているものも少なくありませんが、現実がどうであったかを確かめるのは、タイムマシンでもない限り今となっては不可能です。しかし、完全なる男尊女卑の過去の時代では、女性はそういった振る舞いをしなければいけなかったのでしょうし、世間もそれを望んでいたので、女性の方もできるようになりたいと考えていたのでしょう。ですから本質や実際がどうであれ、「いくじがない、思い切りがない」などを表すのに「女々しい」と表現したのでしょう。
 私も37年間生きてきまして、男性の考え方や振る舞い、また女性の考え方や振る舞いなどを観察していますと、確かに一般的に女性は、男性に比べて体力が弱かったり、人当たりが柔らかかったりしますが、いざとなったときの腹のすわり具合や(表面に出さない損得勘定など)、気持ちの転換の早さなどは、男には到底真似できない芸当を簡単にこなします。逆に言うとウジウジしていたり、いくじが無いのが男性で、その「女々しい」という言葉は「男男しい」と書き換えたほうが、本来は合っているのではないかと思うようになってきました。
 ではなぜ「女々しい」というようになったのか考えてみますと、よく「弱い犬ほど良く吠える」といいますが、昔の男性は女性の方が自分たちより強い生き物だということを薄々感じていて、それを覆い隠すかのように「女はこういうものだ」と力だけで押さえつけていたのかもしれません。また、「能ある鷹は爪隠す」ではないですが、勝っている事を感じている女性は、偉そうに叫んでいる男性を温かい目で見守り、敢えて弱者のレッテルを貼らせたかも知れません。
 そういう風に想像を膨らませてしまうと、女性というのはとても強い生き物で、すごく怖い感じがしますが、それは男性より女性のほうが長生きする分、賢い生き物だということなのでしょうか・・・。

業界のシキタリ

 最近立ち寄った本屋で、ふと目に止まった本があり購入しました。その本は青春出版社から発行されている 「お客には言えない!あの店、あの仕事 ここだけの話」という題名の本でした。読み進めていると「ほう、ほう」とか「そんなことやったのか」と思うのと同時に「そんなん知ってるわ」とか「いまさら敢えて言わんでも」という内容のものが多くありました。
 昔から、その業界業界で「シキタリ」や「シュウカン」「ナラワシ」などありますが、それはその業界内だけでの「内緒事」や「決まり事」であり、それが外部にはあまり漏れるものでもなかったのですが、今では「情報開示?」が徹底されてきまして、いろんな業界の「内緒事」が表に出るようになってきました。
 そんな「内緒事」を持っていたその業界関係者は、そういった内容が世間にあからさまになるに従って、当然に仕事がやりにくくなってきたとは思いますが、その「内緒事」というのは、ほとんどの場合が、業界関係者が「得」する事であって、消費者や利用者にとっては「損」する事柄が多かったのは事実です。そう考えますと、今の「情報開示?」されている状況というのは、消費者や利用者にとって歓迎すべき状態である事はいうまでもありませんが、逆にいろいろな業界関係者にとっても「内緒事」を行う事によって「楽」をしてきた関係者や、「得」をしてきた関係者が淘汰され、「当たり前の姿勢」を貫いてきた関係者が生き残るという状況に近づいてきているとも言えます。しかし現実は、そういった状況がどれだけ近づいても、そんな綺麗事だけではビジネスは成り立ちません。
 例えば本当に極端な話をすれば、さかな屋さんが昨日仕入れた魚と今日仕入れた魚があり、どちらも全く品質的に問題がないにも拘らず全員のお客様に対し、「こっちの方が新しいよ。こっちを持っていき。」とやってしまえばいつまでたっても昨日の魚は売れません。こんな事は極端すぎると思われるかもしれませんが、物事の判断基準というものは、人それぞれ違うのですから、魚の鮮度を重要視する人と、どちらでも良いと思う人ではその店の評価は変わります。
 そう考えますと、ある程度の「策略」はビジネスの世界では容認されなければならないと思いますが、常識的に言うその「ころあい」や「度合い」を超えてしまうか超えてしまわないかが、ビジネスの中の「まじめさ」の基準なのかなと思ったりします・・・。

少子高齢化

 今回も第162回通常国会が開催され、小泉首相が施政方針演説を行った事に対する代表質問が次々と行われています。その場では言うまでもなく、国会議員のお偉い先生方が、国民の生活のため、またこれからの日本のあり方などについて真剣に討議し合い、時には実力行使するなど熱い熱戦が繰り広げられます。そんな国会の様子を私などは昼間は基本的には仕事をしている訳ですから、リアルタイムに見ることはほとんどありませんので、翌日の新聞などで見ていますと、私たちの生活に身近な事柄が代表質問され、また答弁されている事に気づきます。
 そんな中で特に私が興味を引いたのが、小宮山代議士が代表質問された「少子化対策について」です。2006年の1億2274万人をピークに日本の人口は減り続け、2100年には6000万人になるという予測があるほど日本にとっては非常事態です。政治にはあまり関心のない私自身でも、この問題が今一番重要な課題で、またこの問題を解決する事により今問題となっている色々な事の解決策が見つかる重要な事柄ではないのかと思います。
 例えば年金問題にしても、高齢化が進む中で、若者の人口が減りゆく一方で、年金の支払いが多くなるにもかかわらず、自分たちに満足な年金支給されるかどうか分からない状況ですと誰が払う気になるでしょうか。また景気にしてもそうです。私の仕事のように不動産を取り扱うも者も、世帯が減っていくと、売り物件だけが多くなり買う人がいなくなったり、自動車も人口が減ると売れる台数が減っていきます。企業が儲からないと所得も増えず税収も減ります。こんな風にスパイラル状の悪循環が容易に想定できる状況です。
 そう考えますと子供を生み育てる環境の整備をすればいいのではないかと単純思うのですが、それには色んな事が考えられます。例えば非常に乱暴で即物的に考えれば、「1人目には5万円、2人目には10万円、3人目には15万円を支給する」ということになったり、学費の大幅支給や援助などを行ったりすれば、せっせと子造りに励む世帯も多くなると思います。また、子供が増えれば子供向けの産業や、外食産業、レジャー産業なども潤います。そしてその子供が成人すれば、また衣食住の需要が増え日本全体の産業が活発化していきます。しかしそんな事をすると今の政府の台所は火の車になるかもしれません。でも後たった20年後にはそれを取り戻せるだけの税収は確保できるはずです。 
 現実は、そんな単純なものではないかも知れませんが、政治を知らない私は単純にそう思うのでした・・・。

結婚式

 昨年の暮れに友人の結婚式に出席させていただきました。さすがに私もこの年になりますと、いろんな式に出席させていただきましたが、その式は最近巷ではよくやっているらしい「人前結婚式」という式らしいのですが私は初めての体験でした。その式は神父さんもおらず、そこに出席している全員が立会人となって二人の結婚を確認するという方式ですが、よく考えてみれば仏教徒の多い日本人には、神様の前で神父さんに誓いを行うより、現実に目の前にいる友人や知人の前で誓いを行うという行為のほうが合っているのかなとか一人で思いながら立会いをしていました。
 そして次第に式も進み、友人と新婦さんが出席者の前で指輪の交換や誓いの言葉を宣誓しだすと、何か少し私の中に込み上げるものが出てきまして「ジーン」としていました。そんな式も滞りなく終了し、.披露宴会場に移ってからは先ほどの「ジーン」と言う感情もどこかに吹き飛び、大酒を喰らっては同席している友人と馬鹿話をしっぱなしでした。そんなケタケタ笑っていた披露宴も佳境に入り、新婦が「ご両親への感謝の言葉」なんかを涙ながらに語り始めようものなら、先ほどの「ケタケタ」笑っていた気持ちはどこかに吹っ飛んでしまい、大酒を喰らっていることも拍車をかけてまたまた「ジーン」となっていました。
 披露宴も終わり、運転代行を呼んで後部座席でくたばって帰る道すがら、ふと「俺って昔からこんなに涙もろかったっけ?」と考えてしまいました。初めて出席させていただいた結婚式なんかは、それこそ「恥かかんようにせんとな」という緊張でそんな気持ちなどは微塵も感じなかったのは当然のこととしても、出席させていただく回数に応じて段々と「ジーン」とくるようになってきています。また、TVドラマや映画などを見ていても、昔は「親父、何でこんなんで泣いてんの?」とよく言っていたのを思い出しますが、今では妻に「なんで、こんなんで泣いてんの」と言われてしまうようになってしまいました。
 「年をとると涙もろくなる」とよく言われますが、そのカラクリは何なのでしょう?いろんなことを体験したからこそ、その立場が分かるようになってくるからでしょうか。それとも精神的に弱くなってきているからなのでしょうか。今考えると非常にヒドイ事をしていたとつくづく思いますが、確かに幼少の頃は昆虫などを意味もなく「殺戮」していましたし、人を傷つけるような言葉を平気で発していたようにも思います。
 本当はどっちが動物である人間の本性なのでしょうか・・・。

チキンライス

 今年も12月に入ってすぐに街のあちこちでイルミネーションが装飾され、年末の到来が感じられます。年末年始はイベントが重なり、私を含めほとんどの方が本当に忙しないというか、ワクワクするというか、他の季節にはない精神状態が続くのがこの季節の特徴だと思います。
 そんな年末の一大イベントと言えば「クリスマス」です。でも日本人の大半がキリスト教でもないのに、やれクリスマスだ、パーティーだ、プレゼントだと企業に踊らされているのはよくないぞと、よく賢い人がおっしゃいますが、私としては宗教が何であれ人種が何であれ、その日を楽しみにしてそれまでを一生懸命に頑張れるなら、すばらしい事ではないのか、またそんな「イベント」を楽しむのが下手になってきている我々日本人は、便乗でも何でも自分たちが楽しめる事が出来ただけでも結構な事じゃないのかなと思ったりします。
 そんな季節に入って私は、久しぶりに仕事を早く片付けて家に帰って食事をしていましたら、何気なく見ていたTVから流れてきた、失礼ながら本当に「ヘタクソな歌」の歌詞の字幕を追っていました。 
 「・・・子供の頃にたまに家族で外食 いつも頼んでいたのはチキンライス 豪華なものを頼めば二度とつれてきてはもらえない気がして 親に気を使ってたあんな気持ち今の子供に理解できるかな?・・・ 昔話を出すと決まって貧乏自慢ですかという顔をするやつ でもあれだけ貧乏だったんだ せめて自慢させてくれ・・・今日はクリスマス 街は賑やかお祭り騒ぎ 七面鳥はやっぱ照れる 俺はまだチキンライスでいいや」 そう、ダウンタウンの浜田さんと槇原さんが歌っている「チキンライス」です。作詞は相方の松本さんがしたらしく、やはり独特の歌詞になっています。この歌詞(歌ではありません)を見ていて、「何が」ということははっきりと言えないのですが、何かしら心にズシッと刺さりました。「豪華なものを頼めば二度と連れてきてもらえない気がして・・」私も子供ながらにそういった気をすごく使っていましたし、今では「昔話をすると 貧乏自慢ですか・・・・」などは、よくやってしまいます。
 でもひとつだけこの歌詞で誤解しているような気がするのは、「親に気を使っていたそんな気持ち今の子供に理解できるかな」とありますが、私たちが気を使ったのとはまた違うところで今の子供は気を使っているはずです。その部分が少し違うだけで「今の子供は・・・」というのは、ちょっと間違いのように思います・・・。

台湾旅行

 先日、不動産関係の旅行で3泊4日の日程で台湾に行かせて頂きました。私にとって海外は、一四年ほど前に新婚旅行でハワイに行ったきりの人生二度目の海外旅行となりました。他の人はどうか分かりませんが、私の場合は当然その前夜遅くまで仕事をしていましたので、準備はそれからという切羽詰ったスケジュールで出発しました。 早朝に集合し、2~3時間飛行機に乗ってあっという間に現地に到着しました。当然に、私は事前に何の下調べもせず、台湾という国のほとんど何も知らずにその国に降り立った私は、空港を出てすぐの駐車場を見たときに「ここは日本か?」と思うくらいの日本車の多さに驚きました。
 その後最初の目的地に向かうためにバスに揺られながら、日本語の達者な現地のガイドのお兄さんが台湾のお国事情や、注意点などを教えていただいたようなのですが、私にとって車窓から流れる風景すべての何もかもが新鮮で、幼児のように窓に張り付いて食い入って見ていました。(余談になりますがちょうどその時は選挙の時期らしく、日本では考えられない大きさで、候補者をアピールしている看板が街の至る所に掲示されているのも驚きでした。)また、台北の町中を走っている車の車種に興味が湧いてきましてよく観察していますと、日本で言う「セルシオ」やドイツの高級車「ベンツ」、等が一般者に混じってかなりの台数が走っていました。それを見ていると「へえ、台湾って金持ちなんや」と勝手に思い込んでいましたが、後で聞くとそんな高級車を乗れるのは一部の人たちで、殆どの人はミニバイクで通勤などをしているようです。また仕事柄、どうしても街中の建物に目が行ってしまうのですが、本当に近代的なビルのすぐ横に、築年数が相当経っているビルが乱立し、とても都市計画がうまく行っているようには見えませんでした。
 しかし何と言ってもこれも仕事柄でしょう、1番驚きだったのが不動産の高騰ぶりでした。サラリーマンの平均月収が15万円の街で、今建築されているマンションの坪単価が何と「300万円以上」と言うではないですか。更に台北の幹線道路沿いの地価等は「1000万円以上」するらしく、一部の「成功者」のみが台北に優雅に住まいできる環境らしいのです。
 それを聞いて私は、「日本にもそういう時期ってあったよな」とバブルの頃を想像したのですが、台北もバブルがはじける日が近いのではないのか、貴方達も十分気を付けなさいよ、と無意識にガイドさんに忠告していた私がいました・・・。

100円ショップ

 今日、新しい事務所の文房具を購入するために、百円ショップに買い物に行きました。百円ショップというところはいつ行っても「これがこんな値段であるのか!」という感じで、ついつい買いすぎてしまいます。
 私と百円ショップの出会いは(そんな大げさな事でもありませんが)、今からおよそ6年ほど前に、東京都練馬区にできた百円ショップが始まりでした。その店舗は2フロアーあり、総面積にしておそらく500坪くらいはあったと思いますが、その広い店内に置かれているものは全て百円で買えるという衝撃に感動しっぱなしで休みのたびに出かけていき、ついつい無駄に購入してしまいました。
 そういった100円ショップができるまでは、よくスーパーの入口などで、「百円均一」と銘打ってイベントをやっていたものでしたが、そこに売られていたものは、爪楊枝や缶切など台所用品が中心で、おもちゃや文房具などを購入しようものなら、大変言葉は悪いですが「安物買いの銭失い」的なものも多かったように思います。しかし、今の100円ショップは「こんなクオリティーの高いものが100円で売られているのか」と逆に驚きがあり、また行く度に違う商品が陳列されているなど我々消費者の購買意欲を駆り立てさせる演出があり、中々敵もやるもんだなと感心させられます。
そんな100円の商品を手にとって眺めていると、いつも不思議に思う事があります。それは「今までこの位のクオリティーの商品を200円や300円、いやもっと高くで買っていた私たちは、日本のメーカーに騙されていたんだろうか?それとも本来であればこの価格でできていたものが、今までは企業努力が足りなくてやっていなかっただけなのだろうか?」ということです。
 確かに今までは「 Made in japan 」と記入がされているものが、品質やデザイン、耐久性など優れたものが多かったのは事実です。しかし、今となっては品質、デザイン、耐久性なども「日本以外のアジアの各国」で生産されたものが「 Made in japan 」に引けを取らないばかりか、同程度の製品では価格面では到底かなわないという状況になってきています。
 そう考えますと、これからの「 Made in japan 」はどのような方向に向かって進んでいくのでしょうか。今までと同じようなやり方では、もう競争ができなくなってきているのは確かです。それらは「製品」は勿論の事、「経済」や「文化」、「考え方」や「常識」等にも言えることでしょう・・・。

法事

 先日、友人のお父様の葬儀に参列させていただきました。友人は当然の事、そのお父様もよくお世話になった方で、私自身も非常に残念で悲しい思いで一杯でした。
 以前の、コラムにも書かせていただいたように、私も4年ほど前に父を亡くしているので、その友人のこの数日間のことを思うと、私もそういった経験をしているだけにとても辛い思いでした。
 今まで私は、知人や友人の家の葬儀に参列させていただいても、殆どの故人がその友人や知人の祖父・祖母であったりした為に、直接に面識がない方が大半でした。しかし最近は徐々に面識のある方の葬儀に参列するようになり、私も年々歳をとってきているんだなあと実感させられます。そんな中、私の父の葬儀や3回忌などの法事を行っているときに、私自身が実感したことを思い出しました。 自分の家族が亡くなった時は、当然に深い悲しみや絶望感で悲しみ又、苦しむものですが、数時間が過ぎればお通夜の手配や葬儀の段取りなどの現実が迫ってきます。普通の方であれば、こういった段取りなどは一生のうち何十回も行うものでもありませんので、悲しむことも出来ずに葬儀屋さんの助言に従って段取りを組んでいきます。そして葬儀が終わればすぐに今度は参列していただいた方の確認や香典の整理などを始めます。そんな時になぜこんなバタバタしないといけないのかとか、何の為にこんなことをやっているのか等と考える余裕も無いまま1週間ほど経ってから、ようやくひと段落つけ、初めて故人のいない生活が始まったことに気がつきます。そして久々に集まった親戚や知人の事も思い出すようになります。
 私が子供の頃に過ごした正月は、父が7人兄弟の長男だった為、ただでさえ狭い狭い住宅の中に、その兄弟と家族が集まってきて、総勢30個程の口がああでもないこうでもないと勝手にしゃべっていたので、それは本当に凄い事になっていました。しかし時が経つにつれ、そのすごい集まりも徐々に無くなってきまして、今となっては昔のように全員が集まるようなことは無くなりました。こんな事を言うのは不謹慎なのかもしれませんが、先述の法事のときに思ったことがこういうことです。
 普段生活をしていたら、何も無ければ集まらない親戚や兄弟も、その人が亡くなったことによって行う法事あるからこそ集うことが出来るんだなと。違う言い方をすれば、そういう集いをする為にこういった法事というものがあるんだなと実感しました。 
 こんな物事の捉え方は間違っているのでしょうか・・・?