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格差社会

 最近TVを見ていますと、盛んに「格差社会」というフレーズを聞きます。私はこの「格差社会」というフレーズに対しいつも違和感を覚えずにはおられません。以前のコラムにも書かせて頂きましたが、今の日本の社会は、私が見える範囲ではどう考えても「格差社会」というほどの格差があるようには見えないからです。
 私が今迄に見てきた東南アジアや東アジアの国々は、都市部においてはその都市開発や交通網などは素晴らしく整然と開発され、高層ビルやショッピングモール、高級ホテルが立ち並ぶ街には世界のブランドショップが溢れ、数千万もする超高級車が至る所で走っています。但しそれは平均所得水準が日本円にして年収100万円にも満たない国で、です。そんな国ですから、街中で足元を見れば埃で汚れた子供を抱いた母親が物乞いをし、一番の働き盛りの男が道路で昼間から博打したり、寝ていたりします。日本とは違い冬の寒さのない国では、路上生活していても凍死することがない為、普通に路上で生活しています。また都市部の川の近くにはスラム街があり、そのスラムで生まれ育った子供は決してそこから抜け出すことができず、そこでまた次の世代が生まれていきます。そんな今日の飯にもありつけるかどうかの生活を送っている人が大多数存在する中で、豪邸に超高級車を何台も並べ、高級ワインを飲んでいる人たちがいる世界こそ「格差社会」なのではないかと感じるのです。
 逆に都市部から外へ出てみると、昔からの村が存在するところが多く、ここでは決して裕福ではないが、質素な生活のなかで皆ニコニコと生活しています。故意や事件でない限り飢えで死ぬことが少なく、女性や子供でも夜道を歩くことができるこの日本のどこが「格差社会」なのか私には理解できません。守られた環境にいる人ほど人を妬み文句を言う、そんなところですかね・・・

消費税増税

 消費税が引き上げられてから約2か月が経過しました。5%から8%になり買い物の価格は一気に3%のアップですから、高額の買い物はかなりの差が出てきます。普段の買い物にしても、いちいち数円や数十円単位の価格が上がっていています。ただその感覚が、私だけなのかもしれませんが、負担が増したという感覚よりも消費税が5%になった平成9年から17年間見慣れた価格が変化したという、何とも気持ち悪い感覚です。実際に小物を1つや2つ買い物をしても、価格が上がったなあという感じよりも、用意するお金の計算が狂うという感覚です。しかし、スーパーなどで食料品などをまとめて買う時などは、大雑把に頭の中で「このくらいかな」と思っている金額と、レジの方から言い渡される合計額との差が大きいことを感じたとき、はじめて負担が増したなという感覚になります。これは税金が上がっただけでなく価格自体が上がっているものもあるからです。それは端数が円単位で徴収できるものは税額を上げるだけですが、十円単位や百円単位で徴収するしかないものに関しては、あるものは据え置いて、あるものはそれ以上に価格を転嫁するという事をしなければ、事業者だけが負担を強いられることになりますので、ある意味仕方のない事でしょう。また、今まであまりにも消費者が低価格を追求するが故に、原料や原価がアップしているにもかかわらず価格に転嫁できなかったものなども、この絶好の機会に異常になりすぎた低価格を正当な価格に近付けるためにも仕方のない事だと思います。
 そんな国民や事業者に負担を強いる増税というものは、日本の国を思えばこその負担であり、決して税金の無駄使いを許しているわけではありません。そのあたりを本当にわかっているのかと、お偉い方々に申し上げたいものです・・・。

自己表現の仕方

昔から私は、悪く言えばバカだったというか単純だったというか、良く言えば無垢だったというか、今思えば何で?と思うようなことが沢山あります。その一つに小学校の頃の話ですが、私は気に入った格好というのはずっと貫き通す癖があり(違う服がなかったとも言いますが)真夏であろうが真冬であろうがずっと同じ服を着ていたのですが、その服装は真夏に合わせた短パンに半袖という格好です。その時はそれで真冬を過ごしてもそんなに寒さを感じることがなく、よく通りがかりの方に、「あんたそんな恰好でよく寒くないわねェ」と言われたものですが、当の本人は「これが恰好ええんや」と自己満足に浸っていました。また、私自身が心底からそんなに気に入っていない物や事柄でも、何か人と違うものを自分のトレードマークにしたかったんでしょう、一度「これ」と決めたものはすべての「もの」に採用していました。例えばヒーローものなどは、一番人気のあるヒーローものには興味を示さず、それより人気のないヒーローものの中でも主役級に興味を示さず、その脇役を「これがええねん」と別にそんなに好きでもないのに言っていたこともありました。色で例えると赤は主役級ですが、青色の準主役とかです。中学校の時にはオーディオが好きだと決めれば、新聞配達をして稼ぐはずの給与を充てに、40万円以上のローンを組んでオーディオセットを組んだり、高校のときには「ピンクが好きだ」と別に好きでもなんでもないのに一旦決めたら、スウェットであろうが筆箱であろうが何でもかんでもピンクを揃えたりして自己表現していました。
 そんな極端なやせ我慢に近い行動は今でこそなくなりはしましたが、しかし今思い返せば顔写真入りの看板やバス、チラシをしていることを思えば、今ももしかしたら全然変わりないのかも、と思う今日この頃です・・・。

GWの旅行代金

 さて、世間は今日からGWに突入しました。しかし今年は前半の休みのつながりが悪く、恐らく多くの方々は後半の連休に旅行に行ったりレジャーを楽しんだりされるように思うのですが、皆さんはどう過ごされるのでしょうか?私共のGWというの、交代で休みを取るものですから期間中は定休日なしでずっと営業をしています。宜しければひやかしにいらしてみてください。
 そんなGWに旅行や行楽に出かけられる方を見ていつも思う事なのですが、私が不動産業に関わってからというもの、正月を除いて皆さんが休まれる日に重要な仕事をするものですから、普段の休みは平日に取り、まとめて休日を取る時は閑散期に取ったりします。ですからどこに出かけても「人で人で一杯」という経験はあまりなく、結構どこに行っても快適に楽しめたりします。ある時など不意に思いついて、TDLの夕方からの安いパスを購入して入場したのですが、どのアトラクションも待ち時間なしで乗り放題だったのですが、ある程度でもう乗りたくなくなったこともあったくらいです。また、旅行などに行く時もわざと閑散期に取るものですから、ハイシーズンの3分の1以下の代金で楽しめたりします。当たり前に多くの方がその日しか休みが取れないことは十分承知してはいますが、その多くの方が1度にレジャーにかける費用を見ますと私的には「おっ金持ち~」と思わずにはいられません。その為私などは、多くの方が大型連休などや年末年始などに年1回や2回ほど旅行に行かれるところを、同じ費用でその2~3倍楽しめる計算になりますので、本当に得した気分になります。
 しかし、当たり前に得な事ばかりではありません。同業者以外の友人や知人等との旅行、イベントやコンサート、子供の行事へ参加は、周りに迷惑が掛かりますので結構な調整が必要になってしまいます・・・。

教育とは?

 以前にも書かせて頂いたことがあるのですが、以前の自分の行動と今の自分の行動に大きな隔たりがある部分があります。例えば学生時代の私は、夏休み前にみんなが思ってもなかなかできない「夏休みの宿題を最初に終わらせてあとは遊ぶだけ」という誓いは毎年のように打ち砕かれ、新学期が始まってようやく観察日記などを捏造したり、人の宿題を丸写ししていました。それが何がどうなったのか分かりませんが、今では「やらなければいけない事」や「やっておいたほうが良い事」はすぐに取り掛かり、複数の案件があっても優先順位を付けて集中してこなしていくため、結果的に他の人よりも時間にかなりの余裕が生じてしまいます。また読書なども昔は「秀才さんのやること」と思っていましたので一切興味を示したことはなかったですが、今では会社の誰よりも本を読み、良かった本は人に勧めるようになりました。
 なぜこうなったのかと考えますと、前者はまず一つに心配事が嫌いな「小心者」という私の性格が挙げられます。私は何せ後々面倒になるのが非常に嫌な性格なので、嫌なことは今すぐ片付けたほうが、残すよりも気持ちや体が楽であると悟ったからです。また後者は、人よりも優位に立ちたいという「見栄」が強いという事でしょうか、今までにない知識を得る事による「知る喜び」というのを人よりも感じやすいのだと思います。もしこういった事を学生時代に感じることができていたならば、私は今頃大学教授か、医師、または国家官僚になっていたかもという物凄い妄想をしたりしますが、冗談は抜きにして、今の私よりは良い学歴や経歴がついた可能性が高いでしょう。
 そう考えますと、教育というのは知識や方法を教えるよりも、それをすることによってどんなメリットが自分にあるのかという事を教えることで、自ら進んでやるかどうかが決まるのではないでしょうか・・・。

カウンタック

 今の私は基本的にはマンガを読むことはありません。と言いますか、昔のように読みたいと思う事もあまりなくなりましたし、それに加えあえて正直に申し上げますと「ええオッサン」がマンガを読むということに抵抗を感じていまして、世間体と言いますか、カッコつけたいといいますか、心の声とは別のところでマンガを読まない自分を作っていたりします。しかし、例外というのがありまして数年前に会社の人はもとより、TV番組でキムタクをはじめとする芸能人が絶賛していた「ワンピース」につきましては、それまでに出版された全巻を大人買いまでして読み、感動した記憶があります。
 そんな基本的には読まないマンガですが、最近また気になるマンガが私の前に現れまして、実は今葛藤しているところです。それは「カウンタック」というマンガです。カウンタックと言えば私と同年代の男性には知らない人がいないというくらい、私たちが幼少期の頃に大ブレイクしたスーパーカーブームの主役級の車です。その車は私が大人になってからも憧れの車でして、もしカウンタックを買うのに住宅くらいの長期ローンが組めるなら真剣に購入したいと真剣にずっと思っていた車です。最近では正直言ってもっと安価でもっと性能のいい車も販売されていますので、いつの間にか興味は薄れていました。しかし先日、マッサージの時間待ちでたまたま本棚に置いてあったそのマンガを読むと、主人公が私と同じように幼いころにカウンタックに憧れ、その思いを将来の自分に宛てた手紙に綴っていました。それを見て今の自堕落な自分に喝を入れ、一念発起してカウンタックを手に入れるという物語でした。
 帰ってネットで調べますと、そのマンガは全28巻あり、私は1巻の途中迄しか読んでいませんので、今猛烈に全巻読みたい衝動に駆られている今日この頃です・・・。

森元総理の失言

 先日、自宅でTVを見ていた時の事でした。番組でフィギュアでの浅田真央さんの演技に対し森元総理が失言したという報道で、その当事者である真央さんが「森さんが後悔しているんじゃないでしょうか」と大人の発言をしたと世間が称賛していた事について森元総理にコメントを求めていた場面が放映されていました。そこで森さんはあの発言に対し「後悔はしていないが真央ちゃんのファンである孫と娘に叱られた」と仰っていました。 
 この問題が報道されたとき、私は直感的にまたマスコミが本筋とは全く違う言葉の一部だけを取り上げて喚き散らしているんだろうと思い、森さんの発言の全文を探してみました。すると内容は次の通りです。
「今朝も真央ちゃんが最後ひっくり返った時は、-中略-見事にひっくり返っちゃいましたね。あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね。なんでなんだろうなと。
 僕もソチ行って、開会式の翌日に団体戦がありましてね、あれはね、出なきゃよかったんですよ日本は。-中略- せめて浅田さんが出れば-中略-ひょっとすると3位になれるかもしれないという淡い気持ちでね。-中略-ものすごくかわいそうな話なんですね。団体戦負けるとわかってる、団体戦に何も浅田さんを出して、恥かかせることなかったと思うんですよね。その、転んだということが心にやっぱ残ってますから-後省略-。」
 この文章もかなり省略していますし、この間にも不適切な発言は確かにありましたが、森さんが言いたかったのは真央さんが転んだことよりも、執行部の判断を問題視しているように聞こえます。何度も申し上げますが、森さんは明らかに失言されています。ただ、だからといって他に主張していた大事な事を一切報道せずに、失言だけを槍玉に挙げるイジメのような行為はもう勘弁してください。単に真実のみを「報道」をしてください・・・。

全国トップレベルのクラブ

 先日、運動部が全国トップレベルの学校へお子さんを通わせておられる親御さんと話す機会がありました。私も学生時代には野球をしていまして、それなりに結構厳しい上下関係や運動量をこなしてきたのですが、その親御さんのお話を聞いて全国トップを目指すクラブと、田舎でそれなりにやっているクラブとの比較というにもおこがましいほどの歴然とした差を感じずにはおられませんでした。私が過ごした田舎のクラブでも、それこそ今では体罰だとかイジメだとか言われるような出来事は当たり前のように存在し、それを下級生だった頃は当然のように受け入れ、また自分が上級生になった時には同じような仕打ちを下級生にしていた記憶があります。現在では当時私が受けた、また行ったようなことをすれば、すぐに出場停止だとか謹慎だとかの社会問題になると思っていましたが、その全国トップレベルのクラブでは、当時の私からしても想像をはるかに超える「しごきや規則」が未だに存在し、またその事を親御さんも知っているにも係らず全く問題になっていません。
 この事を誤解を承知で私なりの解釈を申し上げますと、私のような中途半端な志や目標を設定した者が自分の常識を超えた「しごき」に遭ったとき、その環境や組織を非難する思考や行動に出ることでその現実から逃避しようとするのに対し、全国トップを真剣に目指す子供達はこの辛い状況から逃げ出すことより、この試練をやり遂げることのほうが自分にとって遥かにプラスだと心から思っているのでしょう。その為親御さんは、本人が根を上げない限り本当に言葉通り「歯を食いしばって」じっと見守っておられるのだと思います。
 ある世界で頂点の子供を育てるというのは、子供達の高い意志の継続は勿論、親が子供以上に耐え忍ぶ必要があるんだと、心から感じずにおられませんでした・・・。

携帯電話でポップコーン

 先日ある方のSNSにリンクされていた映像を見てこれはかなり危険だなと感じたことがありました。その映像はテーブルに携帯電話の上部を合わせるように十字に配置し、その中心にポップコーンの種を置いた状態で携帯電話に着信させたら、数秒後にポップコーンができる、という映像でした。この映像を見た他の方からの投稿で「こんなすごい電磁波を脳が受けていると思ったら恐ろしすぎる」等という投稿が一杯入っていました。私がこの映像の何が恐ろしいのかと言いますと、ポップコーンの作り方や仕組みが解っていれば、こんな短時間で且つこんな状態でできるわけがない事ぐらいすぐ解ります。しかし知らない方は意図的に捏造されたこの実験映像を見て「危険だ!危険だ!」と声高に叫び、更にその映像をSNSで撒き散らして他の方に影響を与える、という事が恐ろしいと思うのです。確かに携帯電話は他の電子機器と違い直接頭に当てて通話しますので、電磁波の影響を最も受けやすい機器である事は確かです。しかし、どんな意図があるのか知りませんが、こんなフェイクを捏造した人の思い通りに、闇雲に信じて人に伝えるというのはこれだけ情報網が発達した現代では本当に危険なことだと感じずにはいられません。
 これは何も情報源の不明なものだけとは限りません。マスコミの報道は当然の事、政府が推奨している事でさえ真実とはかけ離れた事柄が無数に存在します。我々一般人にはその真偽について「確実に確かめる術」はありません。しかし、情報統制されていないはずの日本に住む我々であれば、様々な方向から意見を述べている書物やインターネットの情報は見る事はできます。そしてその反対意見をもにわかには信じずに、多くの判断材料の中からニュートラルに且つ純粋に物事を捉え、自分なりの結論を導き出すことが最も重要な事だと思います・・・。

ウォルター・ミシェル博士

 
 私は人間の欲望というのは頑張って克服するもの、又しなければいけないものと思っていましたが、それを簡単に実行できるある理論を証明する実験を見つけました。1960年代に行ったウォルター・ミシェル博士の実験です。この実験では4歳児達を部屋に招きマシュマロ1個を前に置きます。条件は「今すぐ食べてもいいが、15分間待てればもう一つマシュマロをあげる。しかし我慢できず食べたい場合はベルを鳴して食べていいが、もう一つは食べられない」と子どもに伝えて部屋を出ます。すると子供たちはマシュマロから目をそらしたり、手をたたいたり、数を数えたりとマシュマロから気をそらそうとしていました。この実験結果から分かったことは「欲望を克服するには、誘惑から気持ちを他に向けることで、誘惑を断ち切ることができる」ということです。要は、人間の欲求は克服されるのではなく、そらされ、忘れ去ることで克服したように見えるということです。なるほどよく昔に大人から「悪いことばっかり考えてないで、運動でもして発散しろ」と言われていたことが納得できます。ちなみにこの実験から12年後、彼らについてのアンケートを行った結果、我慢できずに1分以内にベルを鳴らして、マシュマロを食べた子供達は、学校でも家庭でも行動上の問題を抱えている率が高いことが分かり、15分待てた子どもは30秒しか待てなかった子どもよりも、SAT(大学進学適性試験)のスコアが平均して120点高い結果がでたそうです。要は気持ちのそらし方が上手いか下手かの違いで、誘惑を克服できる人とできない人の違いができるというのです。
 そう考えますと、私が以前から失敗しているダイエットなどは、「辛い思いをして空腹に耐え頑張る」のではなく、それを忘れるくらいの楽しいことを常にして過ごせば、成功率は高くなるということでしょうね・・・。