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幸福感

 うちの会社の昼食は、お昼前に出掛けた人が電話をかけてきて、買ってきてもらうというのが何だか風習になっています。今日はカレー、今日は**のお弁当などと、その日の気分によって買ってきてもらうのですが、毎日毎日食べていますと、当然にローテンションにも限りがあり飽きてきますので、中には愛妻弁当を持ってきたりしている人もいます。しかし、驚きなのは、私と大して変わらない年齢のおっさんのある社員は、普通のお弁当を作ってもらってきている時でも、普通サイズのカップラーメンなどを「味噌汁」がわりに食べていまして、当たり前にたぬきのような体型になっています。その社員はカップラーメンならばまだ理解できるのですが、弁当にカレーライスを注文し、「カレーは飲み物」と豪語して弁当のスープがわりに食べていたり、小さい弁当を「おかず」と称して普通サイズの弁当を食べたりと、かなりの大食漢です。百歩譲れば確かにカレーライスは食べるというよりも飲む感覚に近いのかもしれませんが、こんなことを平気で言ってのける食欲には脱帽です。確かに私も学生時代に昼は野球部、朝は新聞配達をしていましたので、夕食などは丼でご飯を盛らなければ面倒なくらい食べていましたが、おっさんになった今ではすっかり普通の量で満足できるようになりましたので、彼はいつまでこんな食生活を続けるのでしょうか?
 よく考えますと、沢山の食事を取らなければ満足できない体というのは、金銭面で考えても健康面で考えても不利な生き物です。普通の人が500円で済む昼食も、大盛や二つ購入するわけですから、1.5倍以上は優にかかります。それに加え、健康面でも決して良くありません。ただ、唯一大食漢が優れているものがあるとすれば、それは食事を摂ることによる「幸福感」が、少食の人よりも大きいということだけですね・・・。

車狂い

 私は、間違いなく父の影響で、車やバイクに非常に強く興味を持っています。そんな私は思い出すものだけでも今までに33台の車やバイクを乗り継いできました。免許を取得してから26年ですから、まさに「車命」という所でしょうか、平均して1年に1台以上乗り継いでいる計算になります。18歳の当時は車よりバイクの方に興味があり、また車の免許を取るだけのお金もなかったので、はじめに二輪の中型免許を取得しました。その為人生で一番初めに購入したのは15万円のCBX400Fというホンダのバイクでした。(余談ですがそのバイクは、今ではかなりのプレミアが付いているようで、程度のいいものですと200万円は以上するものもあるようです。)その時点ですでに6年以上新聞配達をしていましたので、それまでに貯めたお金を全部つぎ込んで免許を取得し、バイクは知人の知人から譲ってもらいました。そのバイクは1年も乗らずに次のバイクを購入し、19歳の時に四輪の免許を取得しました。免許を取得し最初に購入した車は友人のお姉さんが乗っていた「アルトで歩こう498,000円」の中古車で、これも10万円程度だったと思います。それからは二輪よりも四輪に乗るようになり、買っては壊しの繰り返しをしていたものですから、気が付けば給料の殆どを車に注ぎ込む(多重ローン)生活が始まりました。そして30歳位を境に車を壊すことはなくなりましたが、今度は車を複数所有したり、1年程度のサイクルで買い替えをするようになり、結果として30台以上の車を買い換えるという、振り返ってみればかなり異常と言える行動をとっていました。
 私ももうすぐ45歳を迎えるようになり、最近になってようやく落ち着いてきたと自分では思っているのですが、それだけのことをしてきますと、周りの人はなかなかそうは見てくれそうにありませんね・・・。

櫻井よしこさん

 先日、名張青年会議所50周年記念の櫻井よしこさんの講演会を聴きに行かせていただきました。正直申し上げまして、私の櫻井よしこさんの認識は、ニュースキャスターとして見ていた時は、聡明な美人でニュートラルな方という印象でしたが、その後のTVでの発言や著書、活動などを見聞きする中で、朧げながら結構な右派かなという印象でした。それでいても話されることは理路整然としていて嫌味もなく、思考が違う人にも素直に受け入れることができる発言をされておられる印象がありましたので、どんなお話が聴けるかと非常に楽しみに参加させていただきました。講演会が始まったとき、これは私だけでないと思いますが、およそ講演会という場にはふさわしくない物凄く優しい口調と声量で話し始められたのには小さな驚きがありました。しかし、その調子のまま、本当に丁寧に整然とお話をされるものですから、次第に引き込まれ最後には、自らの意見と違うのか同じなのかということは別にして、仰ることの全てを殆どかたは理解できたと思います。
 その講演を聞かせて頂いて私が今まで以上に思いを強めた事は、誤解を恐れず申し上げますと、日本人は余りにも国際情勢のことに無関心で、自分に直接に関わることにしか思考が回りません。今議論されている年金や消費税も大切です。原発問題もすごく大切です。それもこれも全て、私達のみならず子供達の将来のために一生懸命議論されていると思いますが、それは「日本という国があってこそ」のこと。そもそも日本という国の主権が他国に奪われでもしたら、元も子もないというごく簡単なことでさえ何も考えず議論しません。国防という過去の歴史から考えても当然に必要な事を無視し、「日本の常識は世界の非常識」という認識すらない日本国民の意識改革の必要性を感じざるを得ませんでした・・・。

会長就任

 先日不動産業界のある大きな組織で会長就任の依頼をされるという出来事がありました。「何でも経験」という自らの行動方針がありますので、良い事であろうが、悪いこと(犯罪以外ですが)であろうが、自分自身が乗り気でなくても、大概のことは機会があれば経験するようにしている私ですが、さすがに諸先輩方が沢山いらっしゃる中で、ここは断るべきではないかと判断しました。しかし、依頼に来られた方の立場や判断をお聞かせいただき、また、先日も書かせていただいた中村文明さんの言葉にもありましたように「頼まれ事は試され事」と考え方を変えて、あえてお受けすることにしました。
 これは「良い格好をするためではなく本当の本心」なのですが、私の考えとしては、身に余る名誉な大役であろうが、逆に誰が考えてもお断りするような大変な苦労をする役であろうが同じことで、借金の依頼でない限り、それを分かってわざわざ私に依頼してくるのですから、基本的にはお断りはしません。私は自分でも何故なのかわからないのですが、自分が「人からやってもらう」ことによって得することや楽しいことをすると、何故かその人や周りに対して物凄く負い目を感じてしまい、最終的にはやってもらった以上の何かを返さないと気持ち悪く感じる質なのです。それとは逆に「自分がしてあげる」ことによって人が喜ぶ姿を見ることにこの上ない幸福感を感じる感性があるようで、ふと気づけばそういう行動をしています。周りからはそこまでしてあげなくてもなどと良く言われますが、私としては自分の満足の為にしている事が、たまたま結果として相手に対して良くしている事に繋がっているだけなのですが。
 しかし、それも私と同じ感性の人にやってしまうと、相手は余計に苦痛になるのですから、自分勝手に考えずに相手をよく見て行動しないといけませんね・・・。

勤労感謝の日

 今日11月23日は勤労感謝の日という祝日です。私だけかもしれませんが年間に15日もある日本のこの祝日について私は、祝日とわかってはいても、その日が何の日であるのかということを特に意識していません。ただ、元旦や成人の日、敬老の日、こどもの日などは、例えばお正月を意識しないほうが無理ですし、敬老の日は祖父母に対して何らかのアクションを起こしますので自ずと意識します。しかしその他の11日はほぼ特に意識して過ごした記憶がありません。本来の祝日の目的から考えれば、その日にちなんだ感謝や行動を行うべきであるとは思いますが、私の場合、その他の祝日は、特に何をする訳でもなく、何を意識するでもなく、祝日という平日よりもお客様が多く来客される日という認識でしかないのは、今こうやって考えたことをきっかけに、考えや行動を改める必要があるのかもしれません。
 今私は敢えて「祝日」と記載しましたが、正確に言えば「祝祭日」になるのか、また祝日と祭日は何が違うのかと疑問が出たので調べてみました。すると意外なことに祭日というのは戦後の1948年に制定された国民の祝日に関する
法律で廃止され「国民の祝日」に統一されたようで、現在は「祭日」は存在しません。ちなみに戦前にあった祭日の定義は、皇室行事に関連した祭事の行う日を祭日と定めていたようで、それ以外の日を祝日としていたようです。そんな中、それに加えて一般には今日は何の日か興味が出て調べてみますとかなり色々出てきました。手袋の日、ゲームの日、珍味の日、いいふみの日、いい夫妻(1123)の日…など書ききれないほど出てきます。ちなみに昨日はいい夫婦の(1122)日でした。
 しかし、こうやって書かせて頂いているからこそ、調べて知識にできる事が沢山あることに、この上ないお得感を感じる今日この頃です。ありがとうございます・・・。

国際交流

 2年程前、名張西高にタイから短期留学に来た女の子を受け入れたことがありました。タイに帰国後も互いに連絡を取り合っていましたので、私たちがタイへ行った際には、彼氏と共に数日間も観光案内などをしてくれたこともあり、今回はその二人を日本へ呼び寄せ2週間ほど我が家へ滞在していただきました。2週間滞在しますと、文化の違いも段々と慣れてくるもので、最終的には全体的に日本の方が全て「良い」と思って来たらしく、日本で住みたいと何度も繰り返していました。特に彼らにとっては全ての食事が日本の方が美味しらしく、特に自国では高くて美味しくない「寿司」「肉」は絶品で、滞在期間中毎日ほぼその繰り返しをさせられました。その為、私たちは当分の間、回転寿司や焼肉屋さんには目も向けたくなくなりました。また、今の日本のこの季節はタイにはない季節で、「寒い」「涼しい」という感覚がよほど珍しいのか、入浴前に必ず散歩に出かけて体を冷やしてから入浴したりと、自分達で日本の生活を満喫していました。しかしもっと興味があったのは雪で、今は無いことが判ると、帰国後に頑張ってお金を貯めて、来年の冬にはスキーに連れて欲しいと言っていました。
 そんな彼らは大学で日本語の勉強もしているので、少しの日本語を話すことができます。しかし、半分は互いにカタコトの英語で話をするのですが、2週間もすると面白いことに私たちの日本語もカタコトになってしまいました。また、彼らが勉強で学ぶ日本語は、教科書通りの丁寧な言い回ししか勉強しないので、関西弁などを教えてあげると面白いらしく、お店の店員さんなどに関西弁で話しかけて楽しんだりしていました。
 いろんな国の人と交流するというのは、金銭的にも体力的にも大変ですが、それ以上に生活や文化、思考など得るものはかなり大きいと、いつも感じます・・・。

出来すぎた社会主義国 日本

 先日、不動産業界の招待旅行でフィリピンのセブ島へ行ってきました。それまでの私のフィリピンのイメージとしては、貧しい・汚い・安い・そしてオジサマ連中が遊びに行かれる国という感じでしたが、行ってみてそのイメージとのギャップに驚きました。確かに、ホテルの外に一歩出れば、ここで生活しているのか?というくらいのスラム街があったりしますし、買い物に出ても子供が物乞いにしつこくついてきますし、何かと親切にしてはチップを要求されたりしましたので、ある意味イメージ通りの部分もありました。しかし、私はこういうところでは、何故か他の方と違う行動を取る習性がありまして100名ほどの団体の皆さんがオプショナルツアーにどんどん行かれる中、ビーチで一人ゆっくり過ごした後、特別にバブルに湧くマニラへ「コンドミニアム見学ツアー」を手配していただきました。見てくれは運転手とガイド、そして地元不動産のエージェントを携えて7~8件ほど見て回りましたので、どれだけの富豪が来たのかと思われたことでしょうが、エージェントさんには申し訳なかったのですが、丁寧な説明もあり大変参考になり有意義に過ごすことができました。
 しかし、今どのアジアの国でもそうですが、日本よりも遅れて今発展してきているため、開発の規模や計画性は日本とは比較にならないほど優れています。またその経済発展によって貧富の差は、日本でいう貧富の差などとは、全く比較にならなないほどの差がついています。圧倒的多数の貧困層とごく少数の超富裕層、それに加えその国の経済活動を支えている増加しつつある中間層。
 そういったことを肌で感じますと、以前読んだ本である方が書いていたことが妙に納得できます。「日本ほど貧富の差のない、素晴らしくよく出来た社会主義国はない。富の分配が制度によって出来すぎている」と・・・。

因果応報

 私は仕事上、当然と言えば当然ではありますが、土地の境界や相続などの紛争には良く遭遇します。紛争のきっかけや事情は、それぞれに異なった理由があるのですが結末はおおよその場合、無理難題を主張する人や、頑なに自己主張を曲げない人など所謂「言ったもん勝ち」の場面になることが多いことに気づきます。これはその状況を考えればそうなることは当然で、例えば境界を確定したい人というのは、その土地を売ったり分筆したりと、何らかの動きをしたいがゆえに境界の確定作業に入ります。相続についても、相続不動産を売却や使用したいと考える人は、そうしたいことに何らかの理由があるわけですから、できるだけ早く解決し、売却や使用できる状況にする必要があります。その為相手方にかなりの無理を主張されたとしても、最低限の売却や使用することによる利益が確保されるのであれば、仕方なしに自らが主張を控えて合意し、次のステップに進むことを選択することになります。
 こういったことを何度も目の当たりに経験しますと、最初の頃は因果応報ではないですが、この無理難題を主張した人も別の場面では無理難題を言われて困った状況になったりしているんだろうなと思ったりしていたのですが、長くこの業界に身を置いていますと、同じ人が度々登場することがあり、その度に不当な利益を得ている人がいることに気づいたりします。当然私が見ている範囲がその人の全部ではないので、ずっと利益を得続けているかどうかなんてわかりませんが、私が見える部分が全てそういう結果であれば、少しだけそういう人もいるのかなとか思ったりします。
 私自身としては、至って一般的な日本人的宗教観しか持ち合わせていませんが、それでもそんな風に人を追い込んでまで得る利益を得たいとは思いませんね・・・。

九死に一生

 最近かなりハラハラさせられるといいますか、大きな損害が出る可能性のある状況に立たされました。当然これは業務の延長線上の話なのですが、万一この取引が成就しなかった場合に、相手方に対して違約となり違約金が発生するという状況です。違約と言うと、その言葉通り「約束と違う事をする」ということですが、それは、本人が約束を果たしたいと思っていても、第三者的な理由によってそれが不可能となるケースもあり、私の場合はズバリそういう状況でした。
 そんな状況になったとき、私はいつも思うのですが、自分がそのことを経験し克服しているか、又は、そのことに対して自分としての最大限の手段を講じたか、を考えるようにしています。そして一度克服しているなら、その時の状況を思い出し、克服していない状況で最大限の手段を講じていない場合は即行動に移し、講じていれば無駄な心配や行動はせず、できるだけ心を落ち着かせるようにしています。そして最後の〆の言葉として「別に命を取られるわけじゃないし」と自分に言い聞かせれば、ほぼどんな状況にも対処できるようになりました。そして、最終的にこれ以上の悪い状況は無いよなという最大限の悪い状況を冷静に分析・理解し、シュミレーションしたら、あとは「神のみぞ知る領域」と考え、静かに結果が出るのを待つようにしています。
 そういうふうに考えますと、人間の生活の中で起こる出来事の中で、自他を問わず「死」というもの以上の悪い出来事がないことに気づきます。確かに悪いことが起こらないに越したことはありませんが、「ちゃんと」した手段を講じてさえ入れば、必要以上に心配したり落ち込んだりする必要がないと思います。
 今回のケースの結末は、映画のラストシーンのように大逆転劇があり、お陰様で全て上手くいきました・・・。

何でも経験

 先日、とある不動産業界の集まりの中である社長が、近畿不動産販売のホームページにリンクしてある「がんサバイバーホノルルマラソン」のことについて話されてきました。私は酒の入った席ということもあり、聞かれること以上に力を込めてお話しし、その中で、特にいつも私が言っていることを繰り返しお話しました。それは私の持論として「どんなことでも、何でも経験する」ということです。よく人は経験もしないで「自分には無理」とか「こんなこと嫌い」とかいう方がいらっしゃいますが、私としては、どんなことであろうと一度は経験してみてから、批判なり、判断をするべきであると考えています。ですから、普通で考えれば嫌なことでも、本当に嫌なことなのかどうかはやってみなければわからないので、どんなことでもチャンスがあれば積極的に経験するようにしています。そういう考えで普段過ごしていますので、本当に無駄な経験を含めて私の経験値はかなり高いだろうと思います。しかし不思議なもので、そんな経験値が増えれば増えるほど、いろんな人との関わりの中で共通の話題が見い出せたり、また何か特別な事態が突然起こった時の対処なども、経験を積んだからか余裕を持ってできるようになったように思えます。そんな中、前述の活動に関して私は、ある程度形が出来上がりましたので、活動の中心となることは外れ、違う面から支援することにしました。そしてその第1弾として、名張市で数百人規模の講演会を開催したいと思い、名張にあるメディア関係者にその協力を依頼しました。すると、現段階では詳細は申し上げられませんが、来年の夏を目途に私が想定していた以上の主催や共催を得られる可能性が出てきました。
 失敗するのか成功するのか判りませんが、その経験ができることに、今から楽しみでなりません・・・。