カテゴリー別アーカイブ: 2013

辛坊治郎さん

 先日、ニュースキャスターの辛坊治郎さんと全盲のセーラー岩本光弘さんのヨットでの太平洋横断は、マッコウクジラとの衝突によってヨットが沈没し、救助されるという結果に終わりました。こういった冒険は、登山などもそうですが、チャレンジすることで、成功すれば一躍時の人に、失敗すれば無謀だったとか多くの人に迷惑かけたとかと非難されます。また成功しても、準備段階から多くの人の協力と多大な金銭の出費を伴いますが、失敗すればそれに加えて救助活動にかかわる多くの方々へご迷惑や、それに伴う多大な費用なども上乗せされ、ましてやその費用が税金などから支出されようものなら、税金の無駄使いなどと非難されたりします。  
 これに限らず、こういった世間をお騒がせする出来事に対する世の中の反応は、私が今まで見る限りにおいて、その本人たちが反省すればするほど世間の声は厳しく、逆に開き直っていればいるだけ直ぐに話題にならなくなったりします。これは、芸能界や政界でも同じことで、不祥事を起こした当事者が初めから反省していたり、また非難されて反省の色を見せた途端に非難の強さが増します。逆に非難されても我関せず的な態度をとっていると、最初は非難されますが、その内世間は諦め、本人は何事もなかったかのようにその座に居座ったりすぐに復帰したりします。  
 そう考えますと不祥事を起こした場合、誠意ある対応を真摯に行うよりも、全く反省のない非常識な対応をとったほうが「得」だという見方もあるかもしれません。しかしそれは、相手に聞く耳があるから、また二度と起こさないように注意するつもりがあるから、世間は全く聞く耳を持たぬ相手よりも厳しく対応するのだと思います。それは決して人間の本性からくる「弱いものいじめ」とは違うものだと、信じたいものです・・・。

水不足

 かなり前に全国的にも梅雨入り宣言が出されましたが、梅雨に入ってからというもの殆ど雨が降っていません。これだけ雨が降らなければ、今年の夏はまた深刻な水不足に悩まされるようになるのでしょうか。私が学生の頃にはよく水不足だといっては青蓮寺ダムが干上がり、普段では決して見えるはずのない水面下の橋や建造物などが現れときに、わざわざ自転車を走らせ見に行ったものでした。しかし、私の思い違いなのかもしれませんが、昔よりも水量の調節ができるようになってきたからなのか、近年は水不足の年でもそういった橋や建造物を見ることがなくなってきたように思えます。それはさておき正直言って梅雨の季節は鬱陶しいもので、できれば雨天というのはいつの時も避けたいですが、かといって全く降らないのも、水不足に悩まされるという、何ともどっちつかずの気持ちになったりします。どっちつがずと言えば円相場もそうで、このコラムが出る頃には変わっているのでしょうが、今現在は1ドル94円台にまで円が上がりました。個人的には海外へ行くことを考えたり、海外ブランドを購入することを考えれば、円が高くなることは歓迎すべきことですが、経済のことを考えれば円は安くなってくれないと困るわけで、これなどもどっちつかずな気持ちになったりします。
 しかしこれらは良く考えてみれば、物事を自分の常識の中でしか考えているに過ぎず、雨が降らないから水不足になるというのでなく、元々水不足にならないように普段から環境を整えておくことで防ぐことは可能です。それは今までの電気が不足するから原子力を、から、不足するなら消費を抑える、といった発想の転換を早いうちからやっておけば、問題が発生してから対処しなくてもいい事など、普通に考えれば分かる事です。我々人類はいつまでこんな事を繰り返すんでしょうね・・・。

ジャッキ

 以前のコラムでも書かせていただきましたように、私は車バカで免許を取得してからローン地獄にはまりながら30台以上を乗り継いできています。当然大好きな車のことですから、若い頃はお金をかけずに走りや見栄えを良くするために、休みの度に自分で車をいじっていたものですが、最近自らが作業することが殆ど無くなってきました。当然それは年齢もあるでしょうが、もともと車をいじることよりも、走らせることに興味があったからかも知れません。そんな中、まったく車に興味のない方には大変な作業かも知れませんが、車をいじっていた者にとっては、ショップに依頼する程でもないパーツを取り付けたくなり、久々に自分で作業することにしました。しかしいくら探しても作業に必要な工具類が、キャンプ用品で一杯になってしまった倉庫の中から見当たりません。仕方なくネットで探したのですが、工具類を見ているだけであれもこれもと欲しくなり、またどうせ買うならできるだけ本格的なものが良いなどと、殆ど作業もしないのに物欲だけは芽生えてきます。それを「無駄や、無駄やぞ」と自分に言い聞かせながら、必要最低限の物だけを何とか購入し無事作業を終えました。
 こんな事は車に興味がない人には「まったく意味が分からない」という風になるのでしょうが、興味にある人には「わかる、わかる」と同意を得られます。そんな趣味嗜好の世界というのはどんな事でも同じで、興味があるか無いかで全く理解度が違ってきます。しかし私は、趣味嗜好の世界に囚われず全ての事柄についてそれを分からないからと言って理解を示さなかったり、敬遠することは、自分の了見を狭くするだけだと思い、フラットな気持ちで物事を見るようにしています。何事にも興味を持って接すれば、今まで自分が全く知らなかった世界を知ることができるのですから・・・。

かっぱ巻きと鉄火巻き

 
 近畿不動産販売とRe・sumaiとbague-NYは毎月1回全体行事を行うのですが、ある時は駅前でチラシ配布、ある時は著名人の講演会のビデオ鑑賞、ある時は会議など、その内容は各回毎にテーマを決めて行います。そんな全体行事は毎回ではありませんが、終了後に慰労を兼ねて食事に行くのですが、前回は全員でチラシのポスティングをした後、業績も比較的良かったので、今回は特別にすし屋さんで食事をしました。普段、かなり多忙に駆けずり回って仕事をしてくれているものですから、なかなか定時に全員が集まることは難しいのですが、何とか最後にはほぼ全員が集まって懇親できました。そのお店は食材が素晴らしく、その分お値段もそれなりにする(この食材にしてはすごく安いのですが)ものですから、普段はなかなか伺うことができませんので、皆はこの時とばかりに舌に贅沢をしていただけたようです。
 そんな食事も進み、酔いも回ってきたときある人が食事の〆に「かっぱ巻き」を注文していたので、それをつまんだまた別の人がこう言いました。「かっぱ巻きは好きやけど、自分では勿体なくて頼まれへん」と。それを聞いては私も完全に同感と思い、その話に乗りました。「かっぱ巻き」を頼んだ人やその他の人は、普段ご飯とキュウリとは一緒に食べることはないのに、キュウリとすし飯と海苔のコラボレーションが何でこんなに旨いのか、うまいから毎回必ず注文すると言うのですが、私と頼めないと言った人は、確かに美味しいし食べたいが、すし屋に来て中身がキュウリなんて物を勿体なくて注文できない、増してや、鉄火とかっぱの値段差(その店では50円差)を考えたらとてもじゃないが注文する勇気が出ないというのが同意見でした。
 その同意見だったのは、私と私の弟でした。やっぱりこんなところに幼少期からの環境が出るんですよね・・・。

余命宣告で休職1年

 先日yahooのあるトピックスに目がとまりました。それは、「家族が余命宣告を受けたら、最長1年休職の会社」という見出しでした。内容をよく見ますと、余命が6か月以内と宣告を受けた父母、配偶者、子供などがいる場合、1週間から半年の休職が認められ、最長で6か月延長できるというものでした(但しその間は無給)。私も前妻ががんで余命宣告を受けた後亡くしたものですから、その精神的、肉体的に家族の負担が大きくなることを体験していますので、この制度を掲げた大手製薬会社の姿勢に敬意を表します。しかし、そういった負担のみならず、余命宣告を受けた家族との残り少ない時間の共有をできるだけしたいと願っても、現実を直視すればなかなか思うようにできません。私はがんに侵されるまでの前妻との時間の過ごし方に、かなりの後悔と反省がありました。その為、この余命宣告を機に、せめてこの残り少ない時間だけでも会社を休んで一緒に過ごしたいと思っても、当時は代表の私が抜けられる状況では到底ありませんでした。しかし、社員全員にその気持ちを話し、皆の心からの応援が得られたので、無期限の休暇を頂き、治療を継続しながらキャンピングカーで日本中を前妻と旅しました。それがなし得たのは、社員がそれを心から応援してくれたことと、ある程度その間の給与を支給してくれたことで実現できたのでした。  
 そう考えますと、余命宣告を受けた家族に休暇を与えたとしても、(与えないよりは全然良いのですが)その間の収入(ある程度の給与支給など)がなければ現実的に長期の休暇は取れそうにありません。しかし、会社や社会がそれに対応するまで病気は待ってはくれません。保険の保証内容にせよ、貯蓄額にせよ、会社の休職制度にせよ、自らもどのような状況にでもある程度は対応できるよう、日頃からの準備が重要ですね・・・。

正確な日本語って?

 いつの時代も「最近の子はダメだ」とか「最近の日本語はなってない」など
と言われます。しかしよく考えてみますと、私が10代の時にも、諸先輩方から同じことを言われていましたし、私の少し上の世代でも、ヒッピーやみゆきなどの族が流行っていたり、そのまた上の世代もロカビリーや六本木や太陽などの族が流行ったりして、その時々の諸先輩方は同じように嘆いていたようです。それらは、恐らくその前やそのまた前の世代も同じ事を繰り返していたはずです。それはどの時代の若者も、既成の世界や世間体に対して反発心を抱くことが当然であり、またそういった気持ちも意味あるものと思いますので、諸先輩方から見た「最近の若者」の存在はいつの時代も必要なものなのでしょう。  よく考えますと言葉や生活様式、流行などというものは、時代によって変化していくのは当然のことで、それに加えてその時代に常識とされていたことや言語さえも変化していきます。昔からある文化や伝統を後世に承継していくことは、日本という文化の豊かな国に生まれた人間としての義務でることは間違いありません。しかし、今までの歴史を見る限り生活様式はもとより、言語や常識については、いったい何をもって「正解」とすべきであるかは議論すべきことであるように思います。極端な話、昔からある言葉や文字が「正解」なのであれば、例えば平安時代の言葉や文字を「正解」とするならば、既に江戸時代で「正確」な日本語でなくなっていることになります。もっと近くで大正時代や昭和初期の文字や言葉を「正解」としても同じことが言えます。それなのに事あるごとに「今の日本語は間違っている」という人を見るたびに、それはだれが決めた日本語?と思います。
 そう考えますと今言われる日本語の「正解」って、どの時代のどの日本語なのでしょうか?・・・。

 

瓢箪って何?

 先日あるお店で食事していた時、そのお店の飾り棚に瓢箪が飾ってありましたので、何気に見ていましたらある疑問がわいてきました。それは、「瓢箪って何?」ということです。といいますのも、知識の薄い私の頭の中で瓢箪というものの利用方法は、乾燥させて飾り物や容器にしたりするくらいしか思いつかず、お店の方とも話しましたが、瓢箪を食べるということも聞いたこともないし、一体瓢箪ってそんな利用方法しかないのになぜ今まで栽培され続けてきたのか?ということでした。そこで、インターネットで瓢箪の利用方法について調べてみましたら、やはり殆どのサイトは液体の容器や食器に利用する方法や、食用の特別な種類だけは食べられるということは記されていましたが、それ以外に特に「そんな使い方があるのか」と驚くような用途はありませんでした。そう考えますと現代の瓢箪は、お土産や飾り物としての利用はされてはいますが、昔の知恵で作られた気化熱の作用で外気よりも温度を低く保てる水筒や、丈夫な容器も実用的に使われることはなくなりました。
 そんな知識や知恵などは、昔であれば親やおじいちゃんおばあちゃん、近所のおじさんや先生や先輩などに聞いて初めてわかるものでしたが、今ではパソコンどころかスマホをシャッシャと操作するだけで、いつでもどこでも誰でも簡単に情報が得られるようになりました。でもそれは今から考えても20年もたたない過去には想像もできなかったことです。そう考えますと現代の技術的進歩は驚異的以上の速さで、それこそ人類の文明が芽生えた紀元前約1万年前から数えて今から約100年前までの進歩よりも、この約100年間の進歩のほうがよっぽど進化しています。
 そんな時代に生まれて、果たして良かったのか悪かったのかその所どうなんでしょうかねぇ?・・・。

日本でいちばん大切にしたい会社

 私が最近読んだ本の中で「日本でいちばん大切にしたい会社」という本は大変感銘を受けました。これには、企業において金銭や利益以外の価値は何であり、またそれがいかに重要であるかということを実例を元に紹介されています。それを思いますと、私は会社を始める前からですが世間で良く言われる名ばかりの「顧客第一主義」というフレーズにはずっと嫌気がさしています。私が過去に見てきたよくある短期で利益を上げるスパルタの会社や、業界大手と呼ばれる企業の一部には、全く顧客の利益を考えない会社もあり、そのような会社に限って結果として離職率が高い傾向にあったります。私としては、これは今も変わらず思っている事ですが、社員が満足を得たり、仕事が楽しくできない会社で、どうやってお客様に満足与えられる仕事ができようか、ということです。その為私は今まで私自身は勿論のこと、社員の職場環境を一番に優先させてきました。
 また、私が会社をする目的を訊ねられた時、必ず答えているのが「大金持ちになる」という返答です。しかしその理由は殆ど聞かれません。私が本当に言いたいのはその理由で、ものすごくクサい言い方をすると、社会貢献や社会的援助、個人援助などを「思い切り」したいからです。こんなこと言うと、大体の人は「そんなもの今のあなたの状態でも、またやろうと思えばどんなことでも出来るやん」と言われると思いますが、本当に正直に申しまして、私自身の生活費を削ってまで人のために動ける神のような人間ではないのは自分自身よく分かっていますので、ある程度の資力を蓄えてこそ、また少し贅沢ができるようになってこそ自分はそういったことができるんだろうという考えの元にそう考えています。
 今はその目標の「も」にも全く到達していませんが、早くそんな立場になるよう、日々精進しています・・・。

 

円安による弊害

 昨年末、自民党に政権が返り咲き、公共事業への支出の大幅増や景気向上に対する支出の大幅増によって、どこまで続くかわからなかった不況にも少しだけ期待感が増したためか、株価の上昇や円安傾向へとなってきました。これまでは政界や財界では、不景気はもとより円高による企業収支の圧迫が声高に叫ばれていましたが、この円安によって輸出の割合が大きい大企業の収支が、急激に増収となってきました。これで当分は安泰というメディアの告知で我々の生活も安定していくのだろうなと、深く考えるでもなく洗脳されていますが、果たして本当にそうなのでしょうか。  
 私はこの円安傾向になる前から、マスコミが叫ぶこの円高が不景気の根源であるかの主張に対して、いつも腑に落ちませんでした。と言いますのも、日本企業は、これだけ成熟し、モノの購入基準が必要から納得へと変貌した日本市場のみをターゲットに企業戦略を考えず、新興国の必要なモノに対する旺盛な需要に対応してこそグローバルな企業に対して優位に立つどころか、生き残ることができるのは明白です。その為、円高が進めば進むだけ、利益が取れなくなっていきますので、その主張はある意味間違ってはいませんが、逆に今の日本の状況を考えてみればそれば全てでない事は明白です。何故なら日常生活に欠かせない電気、ガソリン、灯油、プラスチック製品などは原料がすべて輸入の原油ですし、食料、衣料についても大部分が輸入です。モノの生産も海外拠点が多くなっている為、円安になればなるだけ国民の生活費の上昇に「直接」繋がるということです。  
 結果として大企業が儲かれば日本全体の景気がすぐによくなることが保証されているなら良いのですが、それが保証されていない中で、大企業だけを守るような主張や政策は、どうも腑に落ちませんよね・・・。 

澤口俊之教授HQ

 先日、アドバンスコープさんの開局20周年記念講演で、「ホンマでっか!?TV」でおなじみの澤口俊之教授の講演に行かせていただきました。澤口教授はTVよりも緊張されていたのか、最初は何を言ってはるのかわからないくらいのものすごい早口でしたが、徐々に慣れて?きたのか聞き取れるようになり、また実例やデータを元に時折冗談を交え、楽しく拝聴させていただきました。その講演は指導者の脳を鍛えるという感じのテーマだったと思うのですが、その中でキーワードとして「HQ」(人間性知能 Humanity Quotient)という人の脳の前頭前野(脳の前部)が司る機能を高めることによって、未来志向的行動力や社会関係力などを高める、という言葉にするとかなり難しいのですが、要するに「人間力を高める」効果があるというのがこの講演主題でした。教授の研究結果曰く、新入社員の退職率の低さや、業務遂行能力の高さ、役職の上位性等はHQの高い人ほど結果が良く、またHQの基準は100らしいのですが、社会的成功者は例外なく値が120以上あるらしく、そのHQの値は鍛えることによっていくらでも、簡単に高めることができる、というものでした。そんな事を聞きますと自分がいくらくらいの数値なのかものすごく気になりまして、講演の最後にテストの仕方を質問しましたら、何と教授の販売しているソフトをもって判定するようで、またそのソフトを毎日20分使えば、HQは簡単に向上するらしいです。(意外と安く送料込4,980円です!)  もしこのHQという基準が、社会的、学術的、世間的に認められるようになれば、今まで行なっていた入社や入学試験などは、全てこの試験で代用できることになり、全ての事柄において共通の基準が出来上がることになります。しかし、それって便利な反面、ひとつの基準でしか人間が判断されないってことですよね・・・。