カテゴリー別アーカイブ: 2005

グルメ

 世間では近年のグルメブームがひと波去った今でも、TVや雑誌などで「食」に関する特集や番組がよく組まれています。一時のグルメブームでは、高級な物や希少な物など、値段が高くなればなるだけ「グルメな料理」というような風潮や、また、いわゆる「頑固親父」のいる店で、何もしゃべれず、親父の思うように食さなければ「出て行け」といわれるような店が流行ったりしていました。しかし私は、高級な料理などはお金がそれほど払えなかったので行く事はできませんでしたが、「頑固親父」のいる店は、たいがい行こうと思えば行けるくらいの金額でしたが、私としては敢えて行こうとは思いませんでした。何故なら、おいしい料理を提供していただいているのですから、感謝して食するのは当然のこととしても、こちらがお金を払っているのに、それを商売している側にそんなにまで気を使って食さないといけないのか理解できなかったからです。しかし今となっては、そういった「頑固親父」の店は、今現在もやってはいるが、話題に上っていないだけか、それとも私のような考え方の人が多くなったからなのかは分かりませんがあまり聞かなくなってきましたし、ただ単なる「高い値段の」お店もあまり聞かなくなってきました。
 今の消費者は、以前のコラムでも書きましたように「安かろう悪かろう」は通じません。当たり前に「安くて良い物」を求めるようになって来ましたし、また、それだけの知識や、経験、見る目などを養ってきています。ですから、ブームの頃に流行った「高いだけの店」なんかは、続いていかなくなるのは当然のことと思います。
 しかし現実を直視して良く考えて見ますと、私たちは今本当に「舌が肥えて」きているのでしょうか?例えば今の鮮魚は天然物が少なくなってきていて、種類によっては殆どが養殖物しか口にできません。また昔は今のように世間がうるさくなかったので、私などは合成着色料や合成保存料が大量に含まれる食品やお菓子を食べて育ちました。そんな私は合成保存料、合成着色料いっぱいの食べ物や、味の濃い物を食べる事に慣れているがゆえにそれが今でも美味しく感じ、そういったものが含まれていない物や味の薄いものを食べたら、物足りなさを感じるときがあります。また、養殖に慣れているために天然物などを食べてもあまりおいしく感じない物もあるという事実があります(皆さんと違い、私だけかもしれませんが)。
 そもそも「おいしい」という定義は、主観的なものであり、客観的に表わすものでないものですが、世間が言う「おいしいもの」「グルメ」などは、やはり人と環境と時代と共に変わっていくのでしょう・・・。

常識非常識

 ある日常の何気ない話。
 「今日ね、結構混んでる電車に乗ったのよ。そしたら向かいの若い子がふんぞり返ってみんなの邪魔になるような座り方をしてたわけ。しかも通路に大きい荷物をドカッと置いて。そしたら私の隣に座ってきたオバサンがそれを見てその若い子に聞こえるくらいの大きな声で『あんな座り方して。もっとちゃんと座って、立ってる人に席譲ったらええのに。』って言いはったのよ。なんか結構強いオバサンやなと思ったけど、こっちも気持ちがすっきりしたわ。」とある人が言ってました。
 確かに外出すると電車の中や、街中などでいろんな人の行動を目にし、その人の振る舞いや、態度、言動などが気になったり、不愉快になったりする事が多々あります。それを私的に分析すると、どうやら人の心理としては、知っている人の前や、自分が誰で、どういう立場でといった事が分かる状況ですと、「常識的」な態度を心がけるようですが、それが関係のない人しかいない環境や、自分の立場や自分の存在を知り得ない状況、また周りに人がいない状況などでは、常識的な行動を取ろうとする気持ちが少なくなるようで、結果的に知らない人から見て「非常識」な行動をとってしまったりするようです。それとは逆に、その場面を自分に置き換えて考えても、自分にはできないだろうと思えるような親切な行動ができる人を見かけたり、相手の方の対応でこちらの気持ちが良くなる事があったりすることもあります。これは、本来誰しもがそういった行動を心では取りたいと思っているはずですが、中々そういう機会に遭遇しませんし、遭遇してもなかなか行動に移すことができません。
 ですから「非常識」な行いを見る確率と「良い行い」を見る確率では、「非常識」な行いを見ることのほうが高いといえると思います。でも、もしかすると人の行動というものは、良い事よりも悪い事のほうが心に残りやすいということも考えられますので、一概には言えませんけれど。
 最後に、冒頭の話に戻りますが、その会話の中で私が最後に一言。
 「そういう物事をはっきりと言える人って、逆に自分が知り合いとかと一緒にいたら、大きな声でしゃべったりして『非常識なオバサン』って思われていることも往々にしてあるんですよ。」と言うと、「そうそう、そのオバサンね。隣に座ってた知らない人に、その向かいの若者の事やら何やらと、ペチャクチャペチャクチャ喋ってて、非常識やって言っているあんたも今は、非常識になってるやろ、と思ったわ。」と言っていました。
 本当によく言ったもので、「人の振り見てわが振り直せ」ですね・・・。

JR福知山線脱線事故

 JR福知山線の列車脱線事故については、もう皆さんもいろんな報道でよくご存知のことと思います。事故が発生してすぐに各マスコミがいろんな「憶測」から「真実である」かのような報道がなされ、また番組内では鉄道ジャーナリストなる方が、ああでもないこうでもないと、事故の状況や原因などについて「憶測」で語っていました。
 私は、この事故がおきてすぐに、このコラムにこの事を書こうかと思いましたが、今後マスコミの「報道」がどうなっていくのかをある程度見届けた上で思ったことを書こうと思い、敢えて今まで書かずにおきました。
話は変わりますが報道被害事件の代表として思い出すのが、かなり以前にあった(旧)オウム真理教が犯行に及んだ「松本サリン事件」です。この事件が起きたとき、第一発見者で被害者でもある河野義行さんを、警察の誤認捜査をあたかも犯人の取調べを行っている事として取り上げ、そしてその結果マスコミの「憶測」で犯人として報道し視聴者に誤認させました。奥さんも意識不明の状態の被害者であるにもかかわらず散々非難の的となった挙句に、事件が起きて半年も経ってからはじめて被害者である事が分かりました。その後TV局各社は特番を組み、自身の業界の反省の意と共に、視聴者に対し今後のTV報道のあり方などについて決意を表しました。ある局では、朝の名物である「ワイドショー」を取りやめる局があったりと、業界が反省をしている感が視聴者である私にも伝わりました。
 その後数年経ち、事件や事故、戦争など毎日色々な報道がされています。しかし、あれだけ視聴者に対し誓った当時の決意や反省は徐々に姿を消しつつあり、また違った形で以前と同様の過ちを犯そうとしています。それが先述の「JR福知山線脱線事故の報道」です。
 JR西日本の安全管理の体制、また職員一人一人の意識などについて、当然にも責められるべきところが数多くある事は、今回の事件が発生した事によりはっきりとします。その真実の報道はマスコミがその報道の自由の権利を如何なく発揮し、視聴者に伝えるべき義務があると思います。しかし、今回の報道の中身はなんなのでしょう。当然悪い事は当然悪いと言うべきです。ただ、悪いものを悪い悪いと叩くだけで何の解決ができるのでしょうか?マスコミの立場は中立のはずです。一方に偏った自身の意見で報道するのは真実の報道ではありません。また、責めるだけの報道も報道ではありません。報道というものは、見たものが最も影響されやすい媒体です。報道を「真実」を伝えることや、現状が改善される目的で使うものであり、興味本意の為に使うものでないと思います・・・。

80年代バラード集

 深夜TVのチャンネルを変えていますと、TVショッピング専門にやっている番組で数分間とまってしまう事がよくあります。宝石や下着、ダイエット器具に健康食品など多種多様です。
 つい先日までは、日本のTVショッピングの販売は、ほんの1~2分間の商品紹介で何点もの商品を紹介しているというスタイルが主流でしたが、最近のスタイルはアメリカの紹介の仕方によく似てきていまして、何分間も同じ商品を繰り返し紹介するスタイルに変化してきています。
昔からアメリカの販売スタイルは、良く考えられているなと思ってみていましたが、それはさほど欲しいと思っていない物でも繰り返し見ることによって、①その商品の良さが理解できてきて ②その商品に興味がわいてきて ③その商品が欲しくなってくる という絶妙のマインドコントロールができてしまうことでした。
 そんな最近の日本のTVショッピングの中で私は、70年代フォークソング集や80年代バラード集、70~80年代ヒット曲集など何分間も繰り返し紹介されてしまうと、もうそこは本当に向こうの思う壺で、思わずその時代の出来事が走馬灯のように駆け抜け、無意識に電話に手がのびている自分がいたりするのでした。そして年下の知人とそういう通販のCD集を思わず買ってしまうといったような話をしているとき、私は「80年代のバラード集」と言ったにもかかわらず、彼は「その懐メロのCD集、貨してくださいよ。」と言われ、なるほど10歳も離れると、その頃の歌はもう懐メロになるんだなと自分の年齢を再確認させられました。
 私は学生時代には毎日のように音楽を聴いていましたが、社会人になってからは、車での移動中にたまに聴くくらいで、あまり普段は音楽を聴かなくなりました。ですからたまに聴くと新鮮な気持ちで聴けるのですが、同じ歌でも車の中で聴くのと、飲みに行った居酒屋などで聴くのとでは全然感じが違う事に気づきました。車の中では単純に「懐かしい曲やな」とか「やっぱりエエ曲やな」という程度ですが、居酒屋などでは心の奥の方から「えぇ~曲やなァ~」とか「なぁっつかしぃ曲やなぁ~」とすごい感動があります。
 何故なのでしょう。やはり単純に体内にアルコールが入っているか、入っていないかの違いでしょうか?それとも聴いている環境の違いからでしょうか?いやその両方ともが関係しているからでしょうか?でも間違いなく言えるのは、確実に年齢を重ねてきているがゆえに、ということでしょう・・・。

平等な時間

 イチロー、松井秀喜、宮里藍、タイガーウッズ、中田英寿etcそれぞれのスポーツの世界でトップクラスの人たちです。ここに名前を挙げさせていただいたのはあくまでもスポーツに関する方たちばかりですが、それ以外の世界にも秀でた人達が沢山いらっしゃいます。そんな人たちの活躍を見ているだけで感動や感心、感激を与えてくれます。そしてこれらの人たちはその持って生まれた才能を、それらが発揮できるステージで十分に活かし切り活躍されています。
 そんな人たちの雑誌やTVなどでの談話を見ていると、話す事にも説得力があり、ついつい入り込んでしまいます。そのお話しの中で大体共通している事は「負けん気が強い」性格です。それは直接言葉で言わなくても言葉の端々で感じられますし、またその「負けたくない」対象は、他人であったり自分であったりします。
 そんな自分の負けん気を満足させる為に、それらの人は人並み以上の努力を惜しんでいません。ただ他人から見て「ようそこまで努力できるわ」と思うような事でも、当人にとっては、「負けん気」を満足させる為の努力なんてものは努力でもなんでもなく、一つの目標に達したときの満足感のほうが勝っているが為に、そんな努力を楽しみながらやっているようにすら見えます。
 人は皆誰しもが他人や自分に負けたくないと心の奥底では思っているはずですが、それが現実的に行動に出して実行できるかどうかの違いで、私のような凡人との差が出てきてしまうのでしょう。それを身近に例えるなら、20代の頃の体型を取り戻そうとか、健康の為に痩せなければとダイエットを始めたとしましょう。初めは、決めた事だからやり遂げるぞと「言葉」で発していても、心の奥底では嫌々ながらやっているので、しばらくすると何かの理由をつけて休んでしまいます。それは今の辛抱と、目標が達成されたときの満足感を天秤にかけて、どちらが自分にとって大きい事柄なのかを計ると、目標の達成感が小さいがためにズル休みをしてしまうのだと思います。ですから簡単に言うと、目標の達成感が自分にとってどれだけ大切か、どれだけ重いかで、他人からは努力に見えても、自分にとっては努力で無くなるということです。
 よく「人間はみな平等だ」といわれます。しかし私はどう考えても人間は生まれながらにして不平等だと思っています。家庭環境や身体能力など、生まれながらにして差が出ています。でも良く考えてみますと、先述まで勝ち負けのような事を書いていますが、別に何を持って勝ちなのか負けなのかは、それぞれの考え方や立場によって異なるのは当然です。お金があったり、身体能力が高い方が「勝ち」と思っているから不平等と思うのであって、そんな事で満足感が得られない人には違う事で満足感を得ればいいと思います。ただ、自分の満足感はそんなもので得られない、そんなにがんばらなくてもと、言葉だけ「諦め」ているのであればもっとその分野でがんばった方がいいと思います。
 最後に、神様が一つだけ人に平等に与えてくれたものがあると私は思っています。それは「時間」です。その時間をどう自分にとって有効に使えるかどうかどうかが、満足のいく人生を送れるかどうかのポイントではないでしょうか・・・。

爆笑問題

 先日深夜にTVのチャンネルを換えていましたら爆笑問題が出ている番組がありまして、私は個人的に太田光さんが好きなものですからそこでチャンネルを止めて見ていました。それは「爆笑問題のススメ」という番組でしたが、その番組構成についてはあまり覚えていないのですが、その中で太田さんがこんなことを言っていました。
 それは確か、映画監督との対談のようなコーナーであったと思うのですが、「クリエイティブな仕事」という言葉が出てきたときに太田さん曰く「ホリエモンはあんな業界にいるのに、全然クリエイティブな人間じゃないね。だってこの間二人で話したときにホリエモンは『皆、何でこういうやり方をしないんだろう。こうやったら儲かるし、こうやったら成功するのになぜやらないんだろうね』と言っていたけど、そんなの皆が儲けの為に仕事してんじゃないよ。そういう人もいっぱいいるだろうけれど、みんながみんなそんな事だけで仕事してねえっつうの。当たり前にさ、お金が儲からないより儲かった方がいいに決まってるけど、そんな金とは関係無しに、もっとああしたい、こうしたいっていう夢があってそんな事をしてる人間がいっぱいいる事を分かっちゃいねえよ、ヤツは。」みたいなことを言っていました。
 なるほど芸能界や芸術の世界、スポーツの世界などでは自分のやりたいことや夢を追って一生懸命にがんばっている人がいます。またそれ以外の世界に現在はいても、夢を追っている人もいます。そんな人から見るとホリエモンの言った言葉は「何にもわかっちゃいねえ」といいたくなります。逆にホリエモンのような立場から言うと「そんな夢ばっかり追っていてもお金にならなかったら意味無いじゃん」と言いたくなります。その2つの立場はお互いに相容れない考え方になるのは仕方がないことですし、それはどちらが正しいというべきものでもないと思います。(太田さんはホリエモンに対し「クリエイティブ」という観点でみると「お前の考え方は間違っている」と言っていますが、決してホリエモン自身の考え方を全否定しているわけではありません。)しかし、ホリエモンしかり、太田光しかりそれぞれの世界でその世界のトップクラスに存在する人は、大勢の中でほんの一握りの人です。大多数の人が夢や、やりたいことをやりながらトップクラスにいけません。
 でもこれも考え方で、全員が全員ともトップクラスまで登りつめたいと考えているわけではありませんので、世の中うまくいっているのでしょう。更にもう一ついうと、やりたいことや夢があるだけでも幸せだと思います・・・。

個人情報保護法

 個人情報保護法、道路交通法、貸金業法、消費者保護法、建築基準法・・・etc、私たちの周りには本当に色々な法律があります。その法律がどのくらいの数があるのかインターネットで調べてみますと、何と約500もの法律があることがわかりました。その一つ一つを見ていますと、私たちの生活にかかわりが深いと思われる法律の中にも、全く見慣れない法律があったりします。例えば、「立木ニ関スル法律」や「遺言の方式の準拠法に関する法律」、「偽造カード等及び盗難カード等を用いて行われる不正な機械式預貯金払い戻し等からの預貯金者の保護に関する法律」、「仲裁法」など、そんなことまで法律としてあるのか、という感じです。
 そもそも法律というものの本来の目的が、どこにあるのか私は専門家で無いのでわかりませんが、私が思う法律の効果は、基本的に困っている人を助けるものであったり、秩序を作るためのものだと思っているのですが、現実問題として法律があるがゆえに、真面目に法律を守ろうとする人や企業が多大なる負担や犠牲を払ったり、昔の基準をそのままにしているがゆえに、現在の実情とはかけ離れている規制を強いていたりするものが数多くあるように思えます。ほんの一例ですが、個人情報保護法などは、その法律を完全無視した業者のメールや郵送物など、私たちが一番規制してほしいものに対しては何の効果もなかったり、道路交通法では道路の制限速度などは、昭和の35年の設定以来、一度もその最高速度が更新されていなかったりと、自動車の性能の向上を完全に無視した法律になっていたりします。
 確かに、規制をしたい対象や人に対して効果的にその規制をかけるということは、素人目から見ても相当困難な事柄だろうと解ります。しかし、だからと言ってそのままにするのだけは、やめて欲しいですよね・・・。

ライブドアVSフジテレビ

 近日メディアや、新聞紙上でライブドアとフジテレビの攻防戦のニュースが報じられない日はありません。ここ数年で急激に成長してきたライブドア(堀江社長)と、日本のメディアの老舗で大手である巨大企業との戦いが、どちらに軍配が上がるかという事に対し、私を含めた国民の関心事となっています。そんなさなかにいろんなTV番組では、司会者やゲスト、経済評論家などが、「ああでもない、こうでもない」と互いの戦い方やメディアのあり方などについて議論を交わしています。
 そんな中少し前になりますが、ある番組で「ライブドアとフジテレビ」のどちらを応援するかという世論調査を行っていた番組があり、結構面白い調査結果を出した番組がありました。それは性別、年代別に支持率を出していたのでしたが、私はそのとき司会者も言っていたように、ライブドアは「若い世代に支持されている」と思っていました。若者はいつの時代も権力や制度、風習やシキタリを嫌う傾向があり、表現が正確ではないですが、フジサンケイグループよりも小さくても、ライブドアのような風雲児的な者の肩を持ち、より大きな組織体を打ち負かすというような状況を好みます。その為、先述のように若者の支持が多いと思っていましたが、ふたを開けてみると、実は「団塊の世代」の支持が圧倒的に高いという結果が出ました。
 「団塊の世代」といえば、一般的に現在の会社組織でいうと「課長」「次長」「部長」というような、その組織では責任のある立場の方が多い世代で、イメージ的には「ぽっと出の若者が世の中の仕組みも分からんと」と一蹴してしまいそうな感がありましたが、意外な結果でした。
 しかし、良く考えて見ますと、「団塊の世代」というのは、今の日本の全労働者の中で、最も「過激」かつ「競争の激しい」青春時代を過ごした世代です。そんな時代を過ごした人たちを想像すると、その世代の人は、「熱かった時代」の心は残りつつも、仕事上の立場や家庭環境を考えると、もう今となっては体制や環境を破壊する事はできないが、そんなことをする人物が現れたら、「やれやれ!やってしまえ」と心の中でエールを送るのでしょう。
 立場や環境があるので、表面的には保守的で常識的な発言をせざるを得ないかもしれませんが、本心では先述のような考え方の人が私よりも上の世代で存在し、しかもその人たちというのは、今の社会構造の中で最も責任のある地位や立場の人が多いという事が、私には非常に嬉しくまた、頼もしく思えた調査結果でした・・・。

老後の不安

 ある日、一人で行った馴染みのバーのカウンターで、たまたま隣同士になった、頭が少し薄くなってきている中年男性と話をしていました。その方は何か事業をされているらしく、マスターから「社長」と呼ばれていましたので、私もその方の名前は聞かず「社長」と呼んでいました。
 その「社長」とお話をしている中で、少し興味を引いた話がありました。それは、その「社長」の知人の方が、身寄りのない独り者で、つい先日なくなられたのですが、残されたお金や財産が結構あったらしく、それらは国庫へ納められるというお話でした。
 その「社長」もつい先日離婚されたばかりのようで本人曰く、「訳のわからん遠い親戚に、転がり込むような形で相続されるくらいなら、国にあげたほうがましやわ。でもそれよりもっとええのは、老後の生活を保障してくれるんやったら、全財産を国にあげてもええわ。」ということでした。それを聞いて私は、確かにそれは一理あると思いました。
 人は老後の生活がどうなるのか、特に子供や頼れる人がいない場合、本当に頼れるのは「お金」になってしまいます。それは、「あと何年何ヶ月私は生きるので、生活費がこれくらいで、娯楽費がこれくらいで、医療費がこれくらいで、それを足して○○万円あれば大丈夫。」ときっちり計算できるようであれば、それ以上のお金はそんなに必要が無くなります。しかし、現実にはあと何年生きられるかや、どんな病気になるかもしれない状況では、いくらお金があったとしても不安になるのは当然です。だから死んでまでお金が持っていけない事は分かっていても、出来るだけ支出を減らし、お金を増やそうとする為に、終期には沢山お金や資産が残ってしまう事になってしまいます。
 だから、先述のようなことを言うんだなと思いながら、簡保や生保のHPでそんな商品がないかなあと見てみましたが、一つの年金の受取額だけで満足な額が受け取れるものは、ざっと見た限りではありませんでした。(詳しく調べればあるのかも知れませんが)それは、年金を「商売」としてみたら成り立たないのであって、もし、成り立つならやっているでしょう。
 そう考えますと、このような事はやはり国や自治体が行うべきものであると言えます。しかし、以前に新聞で見てどういう名称か忘れたので調べられなかったのですが、東京都では自分の家を自治体へ所有権移転し、その後、年金として決まった額が受け取れ、相続が発生すれば売却されるという制度があったように思うのですが、そういった制度をどんどん増やしていけば、老後の不安も少しは解消されるでしょうに・・・。

女々しい

 「女々しい」・・・いくじがない。思い切りが悪いなど男としてふさわしくない(大辞泉より)
 「おんな おんな しい」と書いて「めめしい」と読みますが、この言葉を皆さんはどう思われますか?
 日本では女の人は昔から「でしゃばらず、物静かで、清楚で・・・。」と、まるで感情のないロボットのような振る舞いが、良い女性の振る舞いであるというような風潮があったようですが、現実にはどうだったのでしょうか?現存する書物の中ではそのような女性の姿が描かれているものも少なくありませんが、現実がどうであったかを確かめるのは、タイムマシンでもない限り今となっては不可能です。しかし、完全なる男尊女卑の過去の時代では、女性はそういった振る舞いをしなければいけなかったのでしょうし、世間もそれを望んでいたので、女性の方もできるようになりたいと考えていたのでしょう。ですから本質や実際がどうであれ、「いくじがない、思い切りがない」などを表すのに「女々しい」と表現したのでしょう。
 私も37年間生きてきまして、男性の考え方や振る舞い、また女性の考え方や振る舞いなどを観察していますと、確かに一般的に女性は、男性に比べて体力が弱かったり、人当たりが柔らかかったりしますが、いざとなったときの腹のすわり具合や(表面に出さない損得勘定など)、気持ちの転換の早さなどは、男には到底真似できない芸当を簡単にこなします。逆に言うとウジウジしていたり、いくじが無いのが男性で、その「女々しい」という言葉は「男男しい」と書き換えたほうが、本来は合っているのではないかと思うようになってきました。
 ではなぜ「女々しい」というようになったのか考えてみますと、よく「弱い犬ほど良く吠える」といいますが、昔の男性は女性の方が自分たちより強い生き物だということを薄々感じていて、それを覆い隠すかのように「女はこういうものだ」と力だけで押さえつけていたのかもしれません。また、「能ある鷹は爪隠す」ではないですが、勝っている事を感じている女性は、偉そうに叫んでいる男性を温かい目で見守り、敢えて弱者のレッテルを貼らせたかも知れません。
 そういう風に想像を膨らませてしまうと、女性というのはとても強い生き物で、すごく怖い感じがしますが、それは男性より女性のほうが長生きする分、賢い生き物だということなのでしょうか・・・。