カテゴリー別アーカイブ: 2006

露鵬

 少し前に幕内・露鵬が記者を殴ったとした暴力事件を起こし問題になりました。日本の伝統文化である大相撲の歴史の中で、このような事件は初めての不祥事と大々的に報道されました。確かにあの様な体格の力士が一般の人に対して暴力を振るう事は、決して許されるものではありません。また、技は勿論の事、心の研鑽を行っている日本の国技に係わる者としての行動としても決して許される行為とは思えません。
 現在の相撲界は外国人力士の活躍が目覚しく、個人的にはその事に関して日本人として少し残念な気持ちは有りますが、逆に考えますと国技である相撲も柔道や空手のように世界中で行われ、世界大会などが開催される日も来るのかもしれないと考えますと、日本の文化や心というものを、今以上に世界の人々に広められることであると思えば、それも良しと思えたりもします。
 話は戻りますが、露鵬は非難される行動を何故取ったのかと考えますと、「文化・思想が違うから」と言う方が多いように思います。しかしここでその昔、若貴がマスコミの前で殆ど話をしなかったことを思い出してみて下さい。あの行動は何を意味していたのかと考えますと、私の個人的な意見としては、彼らは自分の意見を述べようものなら全く違う意味の記事や報道にされるがゆえに、マスコミに対し全く信頼を置かず、必要最低限の言葉しか発しなかったのだと思います。今回の露鵬の行動に関しては、何度も申し上げますが決して許されるべきものでないことは明白です。しかし、想像の域を超えませんが、若貴のそれに当てはめてみた場合、今までのマスコミに対して蓄積した不満があったからそういった行動に出てしまったとも考えられます。私は以前からこのコラムでも書いていますように、マスコミに対して決して良い感情は持っていませんので余計にそういったことを考えてしまうのかも知れませんが、彼らの態度をブラウン管越しに見ていますと、そう考えざるを得ません。
 「報道の自由」「真実を伝える義務」と称し、傷ついた人の心の中へ土足で上がり込み、かき回すあの行動や態度。話したくない心境の人に対し何の権限かあるのか知りませんが、やたらと挑発するようなあの言葉や態度。そういった行動や態度で相手を傷つけているも拘わらず、自身が被害を被ると報道という凶器でやたらと攻撃をし、あたかも自分達は全く非が無く、全面的に相手が悪いと非難するというその姿勢。全ての報道関係者がそうではないと分かってはいますが、それほどの凶器を自分達は扱っているんだということを十分に認識して頂きたい物です・・・。

プロジェクトX

 私は、学生の頃に殆ど勉強というものをしたという自覚がなく、また自らすすんで読書というものをした記憶がありませんでした。しかし社会に出てからは必要とされた宅建を取る為に、19歳から一生懸命に勉強をしましたし、読書については先輩に勧められる本を徐々に読み初めてからは、少し時間が取れそうだと感じたら本屋に立ち寄り、面白そうな本を物色するのが楽しみになってきました。そうしますと20歳前には2.0あった視力が、今では0.1以下となりまして、学生時代にいかに勉強や読書をしていなかったかということを証明してしまいました。
 そんなある日、時間が出来そうだったので本屋に立ち寄り、そこで面白そうな本を数冊購入しました。その中で一番興味を引いた本が、かつてNHKで放送されていた「プロジェクトX」を本にした物で、内容的にはそこに出演された方や、その主人公の方の言葉を抜粋したものでした。正直その本を購入した時点でどのような感じの本なのか、内容がどんな物なのかはある程度予想できてはいましたが、その予想通りの展開でも読み進める内にどんどん入り込んでしまい、しかし入り込んでいけばいくほど、この本が終わるのが非常に勿体無い気がして、1章が終わったら早く次の章が読みたい気持ちを抑えて本から目を離してゆっくり余韻に浸り、考える事や決意などをメモしたりして次の章へ進みました。歳を取ると涙もろくなるといいますが、この本を電車に乗って読んでいる時でもそんなことはお構いなしに感動の涙が溢れ、一人で天井を仰いでいました。
 このような感じの本を読んでいていつも、「本当に凄い人」というのは存在するんだなという事を思い知らされます。そしてその凄い人たちの共通点は「すごく高い所に目標があり、それに向って突き進む仲間がいる」という事です。その目標が達成されないでいる目標であるうちは、周囲からは奇異の目で見られたり、無謀な事を言っているだけのようなことを言われたりします。しかし自身は達成する事を当然のように信じ、それを周囲の人にも理解を得、そしてそれに向って皆で突き進んでいくという「信念と仲間」の存在があるからこそ成し得る偉業であると思います。目標を達成するという強い信念がなかったら、そして一緒にやってくれる仲間がいなかったら、そういった結果は出なかったことでしょう。
 そういった事柄を含め、本という存在がなかったら知り得なかった情報というのは数知れません。しかし読書と言うのは自分に合わない本もあり全てを吸収する必要は無いと思いますが、取捨選択して合うものを吸収して自身を高めていけるとてもよいアイテムだと思います・・・。

がんばる

 
 【がんばる 頑張る】・・・ 我(が)に張(は)る の音変化、また「眼張る」の意からとも。「頑張る」は当て字。  大辞泉引用
 最近はあまり言われる事が少なくなりましたが、何年か前からか「がんばれ」という言葉を人に言ってはいけないような風潮があったように記憶しています。確かに「がんばる」という言葉には人にプレッシャーを与える力がありますので、使い方によっては逆効果になる場合があると思います。しかし、何故そうなのかと考えて見ますと、「がんばる」という言葉は非常に抽象的で、「.勉強を頑張る」「仕事を頑張る」と言っても一体何をどういう風に頑張るのか全く具体的ではありませんので、目的や目標があってもそれを実現させるための手段が明確にできない場合は、何をやっていいものかも分からずに、焦りだけが高まっていくからなのでしょう。大変失礼なお話ですが、確かに今まで私の出合った人の中で、しきりに「頑張ります」と言っていた人は、やる気も十分ですし、実際に行動を起こすのですが、手段がはっきりしていないので気持ちだけが先行した結果、すぐに失速し成果が残せない人が多かったように思えます。
 逆にやることはやった後にスパッと「あきらめる」ことを知っている人の場合は、(もちろん努力もせずにすぐにあきらめる人の事は例外ですが)失敗したことや無くしてしまった仕事や物を、いつまでもクドクドと考えずに、その教訓を生かして.次につなげる事ができる人が多かったように思えます。
 そう考えますと頑張るという言葉は、一般的には比較的良い言葉というイメージであると私は思っているのですが、冒頭の「我を張る」から音変化した言葉ということを考えますと、本来は決して良い言葉ではないのかもしれません。確かに「我を張る」を直訳すると、自分の主張をあくまでも押し通すということなので、悪い言い方をすると周りのことを考えないワガママなこと、ということになります。逆に「頑張るな」と言うほうが良いのかといいますと、個人的にはそれも何か違うような気がしますので難しいところです。例えば重い病気の人に「あんまり頑張らなくてもいいよ」と言うのは最近ではそれも良しという風潮ですが、そんなことをいわれた本人からしてみれば「頑張らずに死ねというのか」ということになりますので注意が必要です。
 しかし、こんなことを思っていましても、実際には何故か人に対して「がんばって」と言ってしまっている自分がいます・・・。

オーラの泉

 先日深夜にTVをつけていますと、妻が「オーラの泉や!」と言って何やら嬉しそうに見始めました。私はこの番組のことは、「ああ、こんな番組あったよな」というくらいの認識しかありませんでしたが、何もすることも無かったので一緒に見ていました。その番組は、国文太一さんが司会で、コメンテーターとして美輪明宏さんと江原啓之さんが出演されていまして、ゲストの方がそのお二人に自身を全て見透かされて(いい意味で)幼少時代にどんなことがあったとか、自分の前世はどうだとか、家にはこんなものがあるでしょうとか、今までに私が見てきたものとは明らかに具体性が違い、本当に見えてなければ「そこまではわからんやろう」というところまでを、まるで見て来たかのようにお話をされる展開となっていました。
 こんなことを疑いの目で見れば、事前に打合せをして、そのことをあたかも「見えた」ように話すことは出来ると思いますが、どうも私にはお二人が本当に見えているような気がしまして、いつの間にか食い入るように見ていました。特に江原啓之さんは、(批判は覚悟であえて言いますが)「あなた、芸名変えなさい。でないと駄目になるわよ。」などと言っておられる方の意見とは見ている世界といいますか、次元といいますかが、少し違うような気がして、別の番組などでチラッと拝見する限り、私の印象としては、「この人、なんか違う。」と思っていましたので、これだけじっくりと拝見させていただくと、すっかり「江原教」の信者になってしまいました。(笑)
 しかし普通に考えれば、先述の方の言っていることのほうが、現代の常識から言えばより現実的な意見を言っていますし、説得力があるのに、江原啓之さんのほうが私の心に響くのは何故なのでしょうか?(江原さんには失礼ですが、そう思うのは私だけなのかもしれませんが。)逆に、より現実的でないからそう思うのでしょうか。それとも動物としての直感でそう思うのでしょうか。
人を信じるというのは一体、何を要因としているのかと考え出すと、それは一つではないことに気づきます。今までや、今の家庭環境であったり、職場環境であったり、体調であったり、相手の印象であったりといつも、誰もが同じ条件で無いからこそ答えを導き出すことは難しいことです。しかしよく考えて見ますと、心理学という学問があるのですから、それを完璧にマスターすれば、そんなことも自由自在に出来るのでしょうか。
 いや、いや、やっぱり学問と実践は違うと思いたいものです・・・。

尾道

 先日、妻と休みにどこ行こうかという話の中で、以前このコラムに書かせていただいた尾道の「うどん 奥山」さんに再度行ってみたいということになり、休みが取れた日に行ってきました。その日は昼過ぎくらいに妻と犬2匹を車に乗せて走り出し、夕刻には尾道に着いたのでそのままお店に伺いました。夕刻の早い時間にかかわらず、以前伺ったときとは全く違う状況で、この春卒業したばかりで大阪から帰郷した女子大生の4~5名組から、地元で勤めておられる方までカウンター席はほぼ一杯の状態でした。そんな中、お客さんが入れ替わり立ち代り来るたびに、何名かが何も言わずカウンターをくぐり、向こう側に立ってお客さん同士が話をするという、未だかつて見たことの無い光景が広がっていました。私も馴染みの店をよく作るのですが、ここまで自由にカウンターの中へいろんな人が入って、また勝手に冷蔵庫を開けて飲み物を飲んでいる姿は見たことが無く、また、少し酔ったお客さんが入ってきたとき、「ウーロン茶!」と言って一杯飲んで、30分位いらっしゃいましたが、お勘定は「200円」と、一度ならず二度までもこのお店には相当驚かされました。そんなこの店に来られるお客さんは皆さん本当に気さくな方で、初めてお会いする私たちにも積極的に話し掛けてきて頂き、特に私から見てカウンターの斜め前に立っていた若者2人と横に座っていた若者とは、こんな親父と同世代の私達でも面白おかしくお話をさせていただき、本当に楽しい時間を過ごすことが出来ました。感謝。
 このお店はジャンル分けしますと「居酒屋」さんですが、以前は「うどん」屋さんだったらしく、カウンターの向こうには大きな釜が残っています。その釜の中に恐らく板を敷いて、その上にお酒のビンを並べていたり、冷蔵庫は家庭用の冷蔵庫を使っていたり、コンロも普通の家庭用を使っていたりして、本当になんとも言えない良い「味」を出してくれています。こんなお店が住んでいるところの近くにあれば、私も毎日でも行っていることでしょう。
結局、私たちはこのお店を出て、仮眠を取ってからすぐ家路に着きました。ですから、そのお店に行くだけの為に片道4時間400kmかけて行った事になるのですが、料理ではなく(大変失礼ですが)、自分たちにとって非常に心が満たされるお店がまた一つ増えたことが何よりの喜びであり、それは、一食何万円もする豪華なお店に行くより、また有名なお店に長い行列を作って食するより、そういうことが出来るお店があることが最高の贅沢だと思えました・・・。

得手不得手

 唐突ですが、大変お恥ずかしい話、私は人のお名前を覚えることが非常に苦手です。一度お会いした方のお名前を忘れてしまうことは勿論の事、極端な例を出すと、一緒に働いている目の前にいる人に声をかける際に名前が出てこなくなったり、来客などの名刺交換する際に、こちら側の人物を紹介しようとした時、急に頭が真っ白になったりすることがあります。そんな時は、なんとなくごまかしてその場を取り繕いますが、相手も「こいつ自分の名前が出てこないな?」と察知されていることもあります。ですから一度会っただけで、その人の名前をしっかりと覚えている人に出会いますと、「すごい!」と心から尊敬してしまいます。(誤解が生じると困りますので、ひとつ言わせていただくと、その方の存在を忘れているのではなく、単に名前を忘れているだけで、顔や「どこのどんな人」ということは当然覚えています。)
 しかし、人の記憶力と言うのは誠に身勝手なもので、先述のように私はすぐに人の名前を忘れてしまうのですが、大好きな「車」関係のことは一度聞いたらどれだけ難しい単語でも一発で覚えてしまいますし、ほぼ忘れもしません。その違いの理由を興味があることと無いことだと仮定すれば、名前を忘れるということは、その人に興味が無いということになりますが、私の場合ほぼ全ての人に共通していますので、車には興味があるが人間には興味が無いということになってしまいます。しかし私自身としては全くそのようには思ってはいませんので、一度理由を突き詰めて考えてみたいものです。
 そんな私だけに限らず大体の人には得手・不得手というものが必ずあります。しかし当然に人としては不得手が少ないほうが、何をするにも有利になります。ですから昔私は不得手なものを重点的に直す努力をしました。そして不得手なものを苦労して、つらい思いをして「人並み」になるまでに相当の労力と時間を要しました。しかしそのときに思ったのが、確かに不得手がなくなればいいのは当然としても、人間は完璧にはいかないものと開き直ってしまえば、不得手は不得手として認識してそれを補える人と一緒に行動し、逆に自分は得手を「人並み以上」に伸ばしていけばいいのではないか。そうすると同じ時間と労力を「人並み」を作ることより、「人並み以上」を作ることのほうに費やしたほうが効果的ではないかという風に考えました。
 考えてみましたら、不得手を克服するのはつらいですが、得手を伸ばすのは逆に楽しかったりしますので、「楽して才能を伸ばす」と言えるのではないでしょうか・・・。

ことわざ

 「**の爪の垢でも煎じて飲め」や「石の上にも3年」「猿も木から落ちる」など日本には古くから伝わることわざが3000語を超えて存在します。また世界の国々でも同じようにことわざがあり、その国々によって言い方は違いますが、同じ意味のことわざが数多く存在します。文化や生活習慣や環境などが違っても、同じ人間同士は同じような失敗や悩み、教訓を得、後世の人達に語り継がれていかれるものなのでしょう。
 そんな数多くのことわざは、これだけ科学や技術が発達した現在でも私たちの日常生活に非常に身近なもので、ある時は物事を判断するときの指針になったり、またある時は失敗したときの教訓になったりします。特にそんな時にことわざは本当によく考えられたものだなあとしきりに感心させられます。
 そんなことわざやの事を思っていて、ふと不思議に思う事がありました。それは、こんなすばらしい言葉を「誰が考えたのか?」ということです。近代小説は近い時代の著書の為に作者が判明している事は勿論のことですが、遥か昔の平安時代に創られた枕草子や源氏物語などの随筆などの作者もはっきりと作者が分かっているのに、なぜことわざの作者が分からないのかということです。冒頭にも書きましたが、日本のことわざはざっと数えただけで3000はあります。
 そう考えますと国が違えば当たり前ですが、同じ国のことわざでも一人の人間が作ったということは考えにくいので、全然違う人が作ったと仮定します。また、その作った時期は同じ時期かというと、これまた同じ時代に一気に作られたとも考えにくいので、全然違う時期に作られたと仮定します。すると、今はこれだけの数がありますが、時代を遡っていくと段々とその数が減っていきある時代で0になってしまう事になります。0になるのはまあそんなものかなという感じではありますが、じゃあどうやって増えていったのかという疑問が残ります。仮に自然発生的に増えていったとして、TVやラジオが無い時代に全国にどうやって同じ言葉で広まっていったのか、ビデオやラジカセなどが無い時代に人の言い伝だけでこれほどの数が残ったのか、時代とともに増えていくものならこれから未来にかけてもどんどん増えていくものなのか、結局人間は国や文化や生活習慣が違っても、同じような考え方や行動をとって同じような間違いをし同じような反省をするものなのか、と容量の少ない私の頭の中は??で一杯になりました。 
 こんな誰にも答えてもらえそうに無い事を考えて不思議がっている私の状態を「ことわざ」ではどう表現するのでしょうか・・・。

タイ

 最近、仕事関係でお世話になっている方と食事に出かけた時に、お互いの趣味や仕事の考え方などいろいろと話をさせて頂いて、毎度のことながら「いろんな人がいるんやなあ」という気持ちになりました。
 その彼は、早い時は朝の6時から働き出し、遅くは深夜3時くらいまで働くという本当に多忙な毎日を過ごしています。そんな彼は最低でも1年に1度は海外へ行かないと気がすまないようで、年末年始にかけて長期の休暇を取って海外へ出かけています。海外といってもいろいろな国がありますが、彼の好きな海外というのは東南アジア系で、特に「タイ」がお気に入りらしく「タイ語」が話せる事は勿論の事、日本においても多くの「タイ」の友人がいるようです。(その他の国の友人も結構いるようですが。)
彼の旅行スタイルというのは、今の若い人たちの大半の方の旅行スタイルとは違い、必要な荷物と最低限のお金だけを持ち、特に決まった旅行行程など存在しない所謂バックパッカースタイルです。同じタイでも都心部には興味が無い様で、敢えて観光客のいない農村部に行き、現地で知り合った人たちの家に留めてもらったり、食事させてもらったりするようなふれあいが彼の目的です。そんな彼の旅先でエピソードは豊富にあり、酒を飲みながらいろいろな話を聞かせてくれました。その中で特に印象に残った話をひとつ。
「タイや中国など東南アジア系の国々の賃金水準、特に農村部の人たちは都心部の人たちに比べて非常に賃金が低く、日本人の感覚からすればその人たちは相当な貧困で困っていると思っているようであるが、それは全くの勘違いである。一部の例外を除いて殆どの人々は、先祖から受け継いできた家があるので、日本のように自分達の生活の拠点である住宅を無理なローンで購入する必要がなく、また食材にしても自分達の食べる分は自分達で栽培しているし、もし自分達に何か足らない物があれば、物々交換で事済むので、先進国のように何をするにもお金が必要なんて事はなく、逆にお金がそんなに重要でない。だから賃金水準だけで物事を捉えると考え違いをすることもある。」と。しかし最後に彼はこう言いました。
「しかし最近はその農村部にラジオやTVが普及しだした為、若者が都会へ流出を始めた。また親は子供に教育を受けさせる為に非常に高価な教育費という現金を稼がなければならなくなってきた。結局「情報」が入ってきて先進国の後を追いかけてきてしまっている。」と。
 都会の快楽を知らないで過ごしているほうが幸せなのか、知って楽しむ方が幸せなのか、難しいところです・・・。

価値

 価値・・・物がもっている、何らかの目的実現に役立つ性質や程度。値打ち。有用性。「―ある品物」「―を損なう」「言及する―もない」(大辞泉引用)
 物の価値というのは、それを利用しようとする又は、使用する者がその物をどれだけ貴重に思うか、またその様な思いをどれだけ多くの者がするかによって変化します。その際たるものとして例えば「お金」の紙幣などは、本来であればあの紙切れ1枚にどれだけの価値があるのかと考えて見ますと、原価から言っても一万円が約22.2円、五千円は約20.7円で2千円札は16.2円、千円札は約14.5円ということですので、とてもではありませんが、原価では額面通りの価値はありません。それを考えれば、硬貨の原価の方が紙幣よりも高く500円玉で30円程。100円玉で25円、50円玉で20円、10円玉で10円と金額が低くなればなるほど原価と額面との差がなくなり、ついには5円玉が7円、そして1円玉が3円と額面を原価がオーバーしていますので、本来ならば1円玉が一番価値があるものになるはずです。しかし先述しましたように、いくら原価が高くてもそれを利用する者が「その価値なし」と判断すれば価値は低くなりますし、逆に「価値あり」と判断すればただの紙切れも価値が上がります。同じようなものに貴金属や宝石などがあります。現代では先述の「お金」は生活していく上で最低限の金額は必ず必要となるものですが、貴金属や宝石などは生きていく上では必要不可欠なものではありませんので、本当に欲しいと思える方には非常に価値のあるもので、全く興味の無い方には全く価値の無いものです。
 また少し考え方を変えて「価値」を見てみますと、食べ物というのは生物が生きていく上で必要不可欠なもので、その種類や分類などによって本来は価値の変るものではないはずなのですが、こと人間社会の中では簡単に栽培や養殖できるものであったり、簡単に手に入るものは価値が低く(安く)、入手困難なものや、栽培や養殖が出来ないものなどは価値が高く(高く)なってしまいます。(しかしペットでも好き嫌いはありますが)
 そういった価値というものは、バブルの超インフレから急展開で起きたデフレ現象によって紙幣価値が低下してきていることなどを考えますと人間社会の中では常に時代とともに変化しています。そう考えますと自分自身の「価値」というものも、時代や年齢、環境、地位や立場によって変るものなのであれば、それを今以上に低くならないような努力を常日頃欠かさないようにしていかなければと考えてしまいます・・・。

大宇宙

 皆さんは一人で地球や宇宙の事などを考えていますと、とんでもなく突拍子も無いことを考えたりすることはありませんか?私はいつもそんな時に思うのですが、私たちの地球に生物が存在するという事は、この広い宇宙空間の中で他に生命体が存在する確立は、存在しない確率よりも大きいと言えると思います。その生命体は私たちの常識から考えますと、頭があり胴体があり、足がありと私たち人間と似ているようで似ていない生物を想像しがちですが、同じような体の構造になる方が実は確率が低いでしょうから、もし存在するのであれば全く違う形をしていても不思議ではありませんし、もっと違う観点から見れば「形」という概念すら間違っているのかも知れません。ですから目に見えるという概念が間違っているかもしれませんし、生命体という概念も間違っていて、地球上の生命体は生死が必ずありますが、そんな物も存在しないのかもしれません。また私たち人間は、地球上の生命の支配者のように思っているようですが、それもよく考えて見ますと、例えば私たちが顕微鏡で細菌やアメーバなどを観察する事がありますが、彼ら?からすれば、まさか自分達が自分達より数億倍もデカイ生命体に顕微鏡でその生態を覗かれているなんて事は考えもしていないでしょうから、同じように私たちが無限大に大きいと思っている宇宙空間でさえ、ある生物?(生物という概念も間違っているのかもしれませんが)からすれば宇宙なんてものは、虫眼鏡でしか見えないような物体で、その中で微生物よりも小さい人間という生物が文明的な生活を送っていたり、戦争などをしていることを観察されているかもしれませんし、いや実はそんな微生物が存在している事すら分からないくらいもっともっと小さい存在であるのかもしれません。更に言えば、マトリックスの映画のように人間である自分達は日常生活を日々営んでいると思っているが、実はそれは空想の世界で本当はそんな世界は存在すらしていないのかもしれません。
 そんな事を考え出すと「足が短い」とか「仕事がうまくいかない」とか「お金が無い」とか自分個人の悩みなんてものは「なんか小さい小さい!」という感じになり、クヨクヨしても仕方ないやないかと思ったりします。しかし人間の存在、いや自分自身の存在が先述のように本当に小さいものだとすれば、一生懸命に生きていくのが馬鹿らしく思えたりすることもあります。
 でもこんな事を考えているといつも私が最終にたどり着くのが何故か「自分の死」についてなのです。そして一人で考えて「なんかスッゲー怖い」と非常に恐怖を覚えてしまう今日この頃です・・・。